今回は、「壬申の乱編-不比等が作った幻想の国「日本」(その7)」をお話しする予定でしたが、そのお話しの前提知識として、「悪神」と「悪神崇拝」についてお話しすることにしました。「壬申の乱編」は次回に、お話し致します。

さて、年が明け2024年となり、世の中が急速に変化し始めたように感じます。新年早々、続けざまに大きな事件が起こりました。それらの出来事と同期するかのように、今まで隠されてきた、或いは欺されてきた事の多くが、暴露され始めていると思います。
暴露され始めている事とは、例えば、「日本政府」や「財界」の闇や犯罪性、「西洋医学」や「科学」で常識とされてきた事の多くの嘘、「芸能界」や「マスコミ界」の闇、などです。

このような暴露は、今までの物質主義の時代から、精神性が尊重される時代に変わっていく過程で、起こるべくして起きている現象だと思います。
今は、急速に精神性や霊性の高い時代に、移行しつつあると思います。その様なことを感じながら、ここ数ヶ月間、ブログ記事でお話しする内容について、あれこれと考えていました。

その結果、日本の歴史を語るにあたり、「悪神(あくがみ)」と「悪神崇拝」という要素は外せない、と考えるに至りました。
「悪神」と「悪神崇拝」は、今日的な言い方をすれば「悪魔」と「悪魔崇拝」となります。私は、今までこのような視点で、日本の歴史を解釈することは、あまりしていませんでした。しかし、「悪神」と「悪神崇拝」を考慮しないと説明できないことが多々あることに、最近、気付くようになりました。

[人身御供]
例えば、過去、神社において「人身御供(ひとみごくう)」というものがありました。全ての神社で行われていたのでは無いのですが、意外とあちこちの神社で行われていたようです。


 

この「人身御供」とは、要するに生け贄です。生け贄は、鹿やイノシシといった動物の場合がありますが、「人身御供」と言う場合、生け贄は文字通り「人」です。昔、生け贄にされる「人」は、12~14歳くらいの娘が多かったようです。
生け贄となった「人」の肉は、「神」に捧げられました。「神」に捧げられた肉は捨てたりはしません。誰かが、その肉を食べたはずです。
間違い無く、食べたのは、神官や儀式を執り行った人達だったはずです。

勿論、本当の「神」は生け贄などは、決して要求しません。生け贄を要求するのは「悪神」です。そして、人肉を喰らうことは「悪神崇拝」の儀式です。信じ難いことですが、現実に日本の一部の神社で、過去において行われてきたことです。
そのような「悪神崇拝」が行われたのは、いつ頃のことからでしょうか?
結論から申し上げますと、「悪神崇拝」を持ち込んだのは、本ブログで、ここまでお話ししてきた、飛鳥時代の百済王族が持ち込んだものと、私は推定しています。

 

縄文時代、元々日本列島に住んでいた縄文人達は「神」と心を通わせて生活していました。勿論、「神」は「人」に生け贄などの犠牲は要求しません。縄文時代には、「神」は「人」と伴にいました。
弥生時代になり、朝鮮半島などから多くの人々が日本列島へ入ってきても、縄文人達の言語、神様観、基本的な生活様式は、日本列島に住む人々に受け継がれてきました。これまで、このブログでお話ししてきたことです。
本ブログ【03話】、【04話】、【05話】で「縄文人の生活・文化・神様観など」について記しています。

さらに、古墳時代となり、日本列島の各地に古墳が作られるようになっても、人柱のような、人を犠牲にしたり、生け贄にするような習慣はありませんでした。

本ブログのテーマ古墳で「古墳から見る景色」に記してあります。

飛鳥時代になり、百済王族である「豊璋(ほうしょう)」と「翹岐(ぎょうき)」は日本を内部から侵略しました。その後、飛鳥時代、同じく百済王族である藤原不比等に、天皇家は乗っ取られ、日本は完全に百済王族に支配されるようになりました。
本ブログ「【12話】天武天皇編-不比等が作った幻想の国「日本」(その4)」に記しています。

この藤原氏が天皇家に「悪神崇拝」を持ち込んだことは間違い無いと、私は考えています。
さらに藤原氏は天皇家を通して、神社に「悪神崇拝」を持ち込みます。それは藤原氏の影響力が強く及ぶ神社が主だったようです。
神社で「人」を生け贄として「神」に捧げる儀式は、奈良時代の頃より始まったと思われますが、多くは平安時代末期には終わったようです。丁度、藤原氏の盛衰の時期と一致します。
そして「人」の生け贄は戦国時代には、ほとんど終わり、残ったごく一部が江戸時代で全て終了したようです。

伊勢神宮は、出雲族や物部氏系の流れを汲む人々の手によって、4世紀末頃に創建されたと思われます。伊勢神宮の在る場所は、特別に、何か神聖な意味のある場所なのだろうと私は想像しています。
おそらく藤原氏は、8世紀初め頃(奈良時代)に、その伊勢神宮に「悪神崇拝」を持ち込んだものと思います。
藤原氏の崇拝する「悪神」は「白大蛇」であると、私は推測していますが、この「白大蛇」が、欧米の悪魔崇拝の偶像であるバフォメット(下図)に相当するものだと思います。つまり、「白大蛇」は、藤原氏にとって「悪神」の偶像にあたります。


 

「神」の化身としての大蛇の話が、日本書紀に度々でてきますが、これは藤原不比等が日本書紀に挿入させた作り話だと、私は考えています。

天皇は皇位継承に際して伊勢神宮で大嘗祭(だいじょうさい)を行います。大嘗祭でどのような儀式が行われるかは秘密にされていますが、神と食を共にする儀式を行っている、とされています。
また、この儀式を行う部屋である大嘗宮には、大蛇のご神体があるという話があります。これは確定情報では在りませんが、平成天皇の即位の後に、複数の専門家に指摘されていたことです。
このことから推測すると、単に「悪神崇拝」の儀式を、形式的に行っているだけという場合もあるかも知れませんが、今もなお、天皇家が「悪神崇拝」の儀式をしている可能性は非常に高いと思います。

[桓武天皇]
次の動画には、平成天皇が「桓武(かんむ)天皇の生母が、百済の武寧王の子孫であることに、韓国との縁(ゆかり)を感じています」と発言をしているシーンが収録してあります。
動画全体の内容は、本記事の内容とは関係は在りません。平成天皇の発言は動画の11分20秒頃から40秒間程です。
 

 

単純な、韓国に対する外交儀礼とも受け取れますが、別の見方をすれば、天皇家が百済王族の末裔であることを自ら、堂々と宣言していると見ることもできます。
動画での平成天皇の発言に出てくる「第50代桓武天皇(781年即位)」の父は、「第49代光仁(こうにん)天皇」です。この「光仁天皇」は「第38代天智天皇」の孫にあたります。「天智天皇」は、本ブログで今まで述べてきましたように百済王族の「豊璋」でした。
そして、「桓武天皇」の母は、動画での発言にありますように、百済の「武寧王」の子孫です。
結局、桓武天皇は、ほぼ純粋な百済王族の血統の持ち主なのです。

血筋だけで人をとやかく言うつもりはありませんが、当時の大和政権が東北地方を征圧するにあたり、この桓武天皇は、最も苛烈に東北地方を武力で制圧した、文字通り悪魔的とも言える天皇であったと、私は思っています。
しかも、東北地方に侵攻した理由は、単に黄金を手に入れるためでした。岩手県には数多くの金山があります。

桓武天皇は、大和政権に服していなかった、当時の東北地方へ一方的に、何万もの大軍を何度も送り込み、東北地方を武力で制圧しました。
戦いは桓武天皇の治世中(781~806年)にほぼ終了します。制圧した地域は宮城県と岩手県のほぼ全域です。当時の東北地方には、縄文人の文化、生活様式を多く受け継いだ蝦夷(えみし)が、集落単位で平和的な地域社会を形成していました。
東北地方の蝦夷は、大和政権軍の侵攻に対し、阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)を中心に数百人程度、多い時で数千人規模で抵抗を続け、何度も大和政権軍の侵攻を退けます。
最終的に追い詰められた阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)は投降します。803年8月、阿弖流為と母礼は平安京に連れて行かれ斬首されます。これにより、蝦夷の抵抗は収束して行きます。

[部落民の起源]
大和政権軍と東北の蝦夷との戦いで、捕虜となった蝦夷は「俘囚(ふしゅう)」とよばれました。「俘囚」の中で、関東以西の遠方に連れて行かれ、強制移住させられた人々がいました。
これらの人々は、多くの場合、強制移住させられた先で、まとまって集落を形成させられます。そして、集落は差別され孤立させられた上で、集落の人々は卑しい仕事に従事させられました。これが「部落民」の始まりです。
移住させられた地域は関東・中部地方以西の日本全国で、関西以西の地域が比較的多かったようです。

天皇家は「部落民」の差別問題に関して、当時の天皇家が、その差別制度作りに深く関与した歴史的事実を公に認めると伴に、謝意を表すべきだと、私は思っています。
それにより、現在に至るまでの永きに渡り、多くの人々を苦しめてきた、この「部落民」の差別問題に、終止符を打つべきではないかと思うからです。

[百済王族の出身地]
下図を参照してください。百済王族は、当時(西暦600年代)の朝鮮半島にあった百済王国を支配していた者たちです。


 

百済を支配していた百済王族は、シベリア奥地の山岳地帯の騎馬民族の出身という説があります。彼らは、朝鮮半島の百済の地に来て、土着の人々を制圧し、支配したとされています。
そのことは、本ブログ【08話】縄文文化の現代日本人への伝承(その2)に記してあります。

下図をご覧ください。百済王族となった人々は、シベリア奥地の山岳地帯から東へ移動して、朝鮮半島で百済王国を建国したという説を図にしました。


 

一方、シベリア奥地の同じ民族が西へ移動し、現在のウクライナ近辺に移動して、7世紀頃にハザール王国を建国した可能性があると、私は推測しています。ハザール王国を建国した人々は、百済王族と同様に、この地域の人々を支配して、王族となりました。
ハザール王国の王族は、百済王族と同様に「悪魔崇拝」者でした。ハザール王国の王族が悪行を繰り返したため、ロシアを中心とした周囲の国に圧迫され、何らかの宗教を奉じるように迫られました。
結果、ハザール王族はユダヤ教を奉じること誓いましたが、それは表面上のことで、裏では「悪魔崇拝」を続けていました。

11世紀になり、悪行を重ねたハザール王国は、とうとうロシアなどの周辺国によって滅ぼされます。
百済滅亡時の百済王族と同様に、ハザール王族は各地に逃げ延びます。とくに欧州に逃げ延びたものが多かったようです。
ハザール王族は、この時にロシアを逆恨みし、後々までずっと遺恨を持ち続けたのではないかと思います。「悪魔崇拝」者の多くは、サイコパスであると、私は認識しています。
欧州に逃げ延びたハザール王族は、バチカン、カトリック教会などを支配するようになり、次第に欧州各国の王族に入り込み、欧州各国を実質的に支配するようになります。
このやり方も、日本を内部から侵略して、実質的に日本を支配した百済王族とやり口がよく似ています。

ハザール王族は、今日ではDSとか、グローバリスト、シオニストなどと呼ばれる人々のことです。彼らはユダヤ教徒のユダヤ人を自称していますが、前述のように、それは表面上のことで、実際は「悪魔崇拝」者です。今でも彼らは「悪魔崇拝」の儀式を行い、人肉を喰らい、人殺しを常としています。

また、これらの元ハザール王族は、主に中東に居る本物のユダヤ人と、特別に血の繋がりがある訳でも在りません。そのため、元ハザール王族の「悪魔崇拝」者達は、偽ユダヤ人と呼ばれることがあります。
現在のイスラエルによるパレスチナのガザ地区への侵略は、この偽ユダヤ人のシオニスト達によるものです。
ユダヤ教徒の本物のユダヤ人と、元ハザール王族の偽ユダヤ人は、混同して考えてしまう方が多いと思います。ユダヤ人と偽ユダヤ人は明確に区別するべきです。

結局、飛鳥時代より、日本を内部から侵略した百済王族と、西欧各国を内部から侵略した後、戦国時代の頃に日本を侵略しに来たイエズス会、明治維新の頃に日本を実質的に属国化したロスチャイルド、第2次世界大戦後に日本を直接支配したロックフェラーは、全て同根の「悪魔崇拝」者であるということを、知っておいていただきたいと思います。
このことは、次回の【16話】壬申の乱編のお話しにも関連してくる知識となります。

[出雲系と伊勢系]
最後に、よく使われている「出雲系」と「伊勢系」という言葉に関して、私の見解を簡単に述べたいと思います。

通常使われている「出雲系」と「伊勢系」という言葉の意味を、私は以下のように解釈しています。
「出雲系」とは、縄文人系である出雲族が作った出雲大社を象徴とする、「縄文系の神様」または、「縄文人系の神様が祀られる神社」などのことを表します。
「伊勢系」とは、渡来人系である天皇家が作った伊勢神宮を象徴とする、「渡来人系の神様」または、「渡来人系の神様が祀られる神社」などのことを表します。
ここでいう渡来人とは「大陸系(中国人や朝鮮人、その他騎馬民族など)」を指す場合と「ユダヤ人」を指す場合があるようです。また、日本に来た渡来人が日本を武力で制圧して、天皇家となったと考えることが多いようです。

私の見解は以下の通りです。
「出雲系」に関しては、一般的に言われているように、縄文人の系統の強い出雲族が作った出雲大社を象徴とする神や神社などのことと考えて良いと思います。
「伊勢系」に関してですが、本ブログの「人身御供」の部分でお話ししましたように、伊勢神宮は出雲族や物部氏などの縄文系の流れを汲む人々の手によって、4世紀末頃に創建されたと、私は考えています。
祀られている神様は、本質的に出雲系と大きく変わらないものであり、一般的に言われている、「伊勢系」=渡来人系という考え方は間違っていると思います。
ただし伊勢神宮やその他藤原氏系の神社は、前述のように8世紀以降、藤原氏によって穢されている可能性があるので、祭祀上の問題を抱えている場合があるかも知れません。

[伊勢神宮の位置づけ]
神武天皇を初代とする大和政権は、3世紀末頃に始まりました。神武天皇の即位年を紀元前660年とするのは、全くの出鱈目です。このことは本ブログの【07話】縄文文化の現代日本人への伝承に記してあります。

当初の大和政権は、各地から集まった、地域の王達が合議制で大王を選出していたと、私は考えています。出雲族や物部氏は、大王候補の有力な王だったと思われます。
王達が集まり合議したのは、年に一回、10月のことです。各地で10月は「神無月」とされ、出雲地方のみ「神在月」とされているのは、10月に諸国の王が合議する場が出雲だったからです。
大和政権が始まった当初は、合議の場は出雲であったのですが、何らかの理由で、後に合議の場が大和に変わったものと思われます。おそらく、合議の場が大和に変わってからの4世紀末頃、伊勢神宮が創建されます。

日本書紀の編纂が完了した720年頃まで、全国に数多く存在した「神社」のうち、別格とされる「神宮」は出雲と伊勢、石上(いそのかみ)の3神宮のみでした。そして、大和政権の初期に、出雲が政(まつりごと)の中心であったことは、その「神宮」の名称から一目瞭然です。
720年頃に藤原氏によつて格付けが変更されるまで、出雲と伊勢、石上の3神宮の名称は、以下の通りでした。
「出雲大神宮」
「伊勢神宮」
「石上神宮」

720年に編纂が完了した日本書紀において、藤原不比等は歴史をねつ造しました。日本を建国した者達が、縄文人系の出雲族であることを隠蔽し、渡来人系、とくに朝鮮半島からの渡来人が日本に侵攻し、武力で日本を制圧したと思われるように改ざんしたのです。
藤原氏は、不比等の没後も一貫して、このような歴史のねつ造を貫いたのです。その結果、伊勢系=渡来系という誤ったイメージが定着してしまったものと、私は考えています。

藤原不比等の歴史ねつ造により、伊勢神宮の本来持っている意味合いというか、位置づけが分かりにくいものになっていると、私は思っています。
これは単なる私の直感に過ぎませんが、伊勢神宮はもともと天皇家の神社などでは無く、非常に神聖な場所に創祀、創建された特別な神社だったのでは無いかと思います。

[最後に]
最後までお読みいただきありがとうございました。
次回は「壬申の乱編-不比等が作った幻想の国「日本」(その7)」をお話しする予定です。