今回は、不比等が作った幻想の国「日本」(その5)として、近江(おうみ)朝編をお話しします。
「近江朝」という言葉を聞いた事が無いという方もいらっしゃるかと思います。近江朝とは、天智天皇が近江(現在の滋賀県大津市)に遷都(667年)してから、壬申の乱(672年)で敗れるまでの5年間を指します。
大和政権が近江を都としたのはこの時だけで、特徴的なことだったため、「近江朝」と呼ばれることになったようです。

今回は、近江朝編として、645年の「乙巳の変」後に起こった、以下の①~⑩の出来事についてお話しすると供に、日本書記に記されている中大兄皇子と中臣鎌足が、朝鮮人(百済王族)の入れ替わりであったと、私が推定した根拠を順次、挙げていきたいと思います。
なお、ご説明する以下の項目は、前回予定していた内容に一部若干の変更があり、11項目から10項目になりました。

①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)
②皇極天皇が再度、斉明天皇として即位(655年)、斉明天皇の死(661年)
③「白村江(はくすきのえ)の戦い」と百済の滅亡(663年)
④近江へ遷都(667年)し、中大兄皇子(豊璋)が天智天皇として即位(668年)
⑤中臣鎌足(翹岐)の死(669年)と天智天皇(豊璋)の死(671年)
⑥壬申の乱(672年)と、勝利した大海人皇子が天武天皇として即位(673年)
⑦天武天皇の改革、国史編纂を命じる(681年)
⑧天武天皇の死、天武天皇の皇后が持統天皇として即位(686年)
⑨持統天皇が藤原不比等(32歳)を異例の抜擢、不比等が正史に初登場(689年)
⑩古事記完成(712年)、日本書紀完成(720年)


以下、各項目毎に順次ご説明していきます。

①孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)の確執と孝徳天皇の死(654年)
下の家系図を適宜ご参照ください。今回お話しする近江朝編に関連する、天智天皇、天武天皇の家族と、その周辺の人々の関係を表した家系図です。


 

乙巳の変(645年)の後から孝徳天皇が亡くなる(654年)までの主な出来事を、以下に箇条書きします。

645年 6月 
・乙巳の変で蘇我入鹿惨殺される
・皇極天皇は実弟である孝徳天皇に皇位を譲る
・中大兄皇子の異母兄である古人大兄皇子は、皇位を辞退し出家して吉野山に引きこもる
・孝徳天皇は、姪の間人(はしひと)皇女を皇后とする
・阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)は左大臣に、
 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)は右大臣に、
 中臣鎌足は内臣(うちつおみ)に、それぞれ任じられる
・史上初めて元号を立てて「大化」とした

645年 9月 
・古人大兄皇子が、謀反の企てがあるとされ、中大兄皇子の差し向けた兵により殺される

645年12月
・都を難波長柄豊碕(現在の大阪府)に遷す

649年 3月
・左大臣の阿倍倉梯麻呂が難波京で亡くなる
・右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が反乱を企てているとして、蘇我日向に讒言される。中大兄皇子は軍を差し向け、蘇我倉山田石川麻呂臣は自殺、連座し斬り殺された者14名、絞首されたもの9名、流された者15名、その他自害した者多数であった

649年 ?月
・蘇我倉山田石川麻呂臣の娘であり、天智天皇の妃である遠智娘(おちのいつらめ)は、父の死を深く悲しみ、悲しむあまりに死んでしまった、と日本書記に記されている

651年 ?月
・健王(たけるのみこ)が生まれる。父は天智天皇、母は妃の遠智娘と日本書記に記されている。しかし、遠智娘は、前述のとおり、649年に亡くなっている
・皇極天皇は、遠智娘の子とされる健王を寵愛する

653年 ?月
・中大兄皇子は、皇極天皇、間人皇后、天武天皇、百官を引き連れ大和に戻る。難波宮には孝徳天皇が一人残される

654年10月
・孝徳天皇、一人失意のなか難波宮にて死去

以上の645年から654年までの9年間の出来事を、以下、順次解説していきます。

【乙巳の変の後】
蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変(645年6月12日)の2日後に、皇極天皇から軽皇子(かるのみこ)に皇位が移譲され、軽皇子は孝徳天皇として即位します。孝徳天皇は皇極天皇の同母弟です。

日本書紀の記述では、皇極天皇は当初、中大兄皇子に、皇(大王)位につくように言ったことになっています。しかし、中大兄皇子はそれを辞退し、叔父である軽皇子(かるのみこ)を推したとされています。
皇極天皇は次いで、軽皇子(かるのみこ:孝徳天皇)に、皇位につくように言います。しかし、軽皇子は何度も固辞し、「古人大兄皇子は舒明天皇の御子です。そしてまた、年長です。この二つの理由で古人大兄皇子が皇位につくべきです。」と言ったと記されています。

以上の記述から、日本書記上では、古人大兄皇子が年長者とされていることが解ります。
勿論、皇(大王)位の移譲に関して、上記のような話し合いがあったとは考えにくく、この記述は、脚色されたお話しであったことは間違い無いと思います。
少なくとも、この時点で本物の中大兄皇子は、皇(大王)位に付けるような年齢では無かったはずです。

ここで、乙巳の変(645年)時点での、孝徳天皇、古人大兄皇子、中大兄皇子の実際の年齢を推定してみたいと思います。年齢を推定する事で、新たに解ってくる事が多々あるかと思います。
まず、日本書紀における年齢的な順序関係を整理しますと、
古人大兄皇子(??歳)>孝徳天皇(??歳)>中大兄皇子(20歳)
という年齢順となります。

日本書記上では、乙巳の変(645年)時点で、中大兄皇子は20歳という年齢が設定されています。しかしこの年齢が、ねつ造である事は以前にも申し上げました。
また、本物の中大兄皇子は、645年時点で、おおよそ10歳以下だったのではないかということと、蘇我入鹿を惨殺した中大兄皇子とされる豊璋は、実際は25~26歳位だったのではないかというお話しもしました。

[孝徳天皇の年齢]
まず、孝徳天皇の年齢を推測してみたいと思います。
通説では、乙巳の変(645年)時点で、孝徳天皇は50歳であったとされています。しかし、この孝徳天皇の推定年齢は、明らかに高すぎます。

孝徳天皇に関しては、年齢を推測する上で、有力な手掛かりが、ひとつあります。それは、孝徳天皇の第一子である有間皇子が、640年に生まれていることが明らかになっているという点です。
有間皇子は、658年に19歳という若さで、中大兄皇子によって殺されてしまいます。その悲劇が、日本書記に事細かに記されているため、有間皇子の生年が明確になっています。
当時の皇(王)族の男性は、おおよそ21歳位で有力な血筋の女性との間に、第一子を授かるのが一般的と考えられます。そのため、第一子の生まれ年が解れば、ある程度は、父親の年齢を推定できます。
その考え方から、孝徳天皇の第一子である有間皇子が640年生まれで、孝徳天皇20~22歳の時の子であると仮定すると、乙巳の変(645年)時点で、孝徳天皇は25~27歳という事になります。

以上の推定は、年齢の確定している第一子から逆算していますので、大きな誤差は無いものと考えられます。この当時、天皇(大王)に即位するのは、おおよそ30歳以上が適齢とされていました。25~27歳で天皇(大王)に即位したとなると、若くして天皇(大王)になったと言えると思います。乙巳の変(645年)時点での、孝徳天皇の推定年齢を、27歳としておきます。

[古人大兄皇子の年齢]
次に、古人大兄皇子の年齢について考えてみたいと思います。
古人大兄皇子は舒明天皇の長男であり、皇太子に準じる地位にあったとされています。舒明天皇の後を継ぐのは、本来であれば、古人大兄皇子でした。
しかし、641年10月に舒明天皇が亡くなった時、古人大兄皇子が天皇(大王)にならなかったのは、未だ若かったためと考えられます。先程も述べましたように、天皇(大王)に即位するのは、おおよそ30歳以上という年齢が目安とされていました。
そのため、642年1月に古人大兄皇子では無く、皇極天皇が即位したのは、古人大兄皇子が未だ若く、皇極天皇は中継ぎという意味合いがあったのではないかと、一般的には考えられています。

下にあります年齢一覧表をご覧ください。
上段の方の表「概ね定説となっている推定年齢」です。

・1行目の舒明天皇は37歳の時に天皇(大王)に即位したことになっています。舒明天皇の即位年、629年は確定しています。
・2行目の皇極天皇は舒明天皇の一歳年下と設定されています。皇后は、天皇に近い年齢を良しとする常識から、推定したものと思います。
・3行目の古人大兄皇子は、舒明天皇が23歳の時、615年に生まれたことになっています。乙巳の変(645年)の時、古人大兄皇子は31歳と推定されています。

以上は年齢設定の通説とされていますが、6行目の天智天皇(中大兄皇子)が、乙巳の変の時に20歳であることを前提に年齢が推測されているため、関連する全ての人々の想定年齢が、実際より高くなってしまっていると、私は推測しています。

 

次に、下段の方の表、「本ブログの推定年齢」をご覧ください。
5行目の天智天皇(中大兄皇子)のねつ造された年齢により、関連する全ての人々の年齢が高くなっていると推定し、関連する人々の年齢を、思い切って下げます。

1行目の舒明天皇の年齢は、推測する基準となるものが無いため、629年に30歳で天皇(大王)に即位したと想定しました。
この後、説明します皇極天皇の推定年齢の結果から、あまり年齢差が大きくなりすぎないように舒明天皇の年齢を推定しました。当時の王家の正妻は、あまり年の差が大きくないようにするのが一般的でした。

父親である舒明天皇の年齢から古人大兄皇子の年齢を推定します。舒明天皇が、620年、21歳のときに古人大兄皇子が生まれたとすると、古人大兄皇子は645年で26歳であったと推定出来ます。

[皇極天皇(宝皇女)の年齢]
2行目の皇極天皇(宝皇女)の年齢推定について解説します。
日本書紀、舒明天皇の巻の記述で、「舒明天皇2年(630年)春1月12日、宝皇女(たからのひめみこ:後の皇極天皇)を立てて皇后とした」と記されています。
更に、日本書紀、皇極天皇の巻の冒頭部分に「舒明天皇の2年、皇后となられた」と、再び記されています。
そして、斉明天皇(=皇極天皇)の巻きの冒頭部分にも同様に記されており、都合3回の記述があります。

もしも、この一連の記述に対する解釈を、舒明天皇の妃(皇后)として、630年に宝皇女が迎入れられたと解釈すると、宝皇女が中大兄皇子を626年に生んだということと、大きく矛盾してしまいます。
勿論、一般的な解釈としては、舒明天皇が天皇(大王)に即位する前から宝皇女(後の皇極天皇)は妻であり、舒明天皇の即位後に宝皇女を皇后に立てたと考えられています。

また、その他の注意点に、日本書紀の記述上の特殊な考え方として、例え「舒明天皇2年(630年)春1月12日、宝皇女を立てて皇后とした」と記されていても、実際に、いつ宝皇女を皇后としたのかは定かでは無いという、考え方があります。要は、后妃の記載は、後日に吉日を選んでまとめて記載する習慣がある、とされているようです。
そのような日本書紀の記述上の特殊性を踏まえながらも、今回の「舒明天皇2年(630年)春1月12日、宝皇女を立てて皇后とした」という部分に関しては、そのまま記述通りの事実を表していると解釈します。つまり、630年1月12日に、宝皇女は皇后となったと認識するという事です。

ところで、宝皇女は、前夫がおり、前夫との間に一子が生まれていることが日本書紀に記されています。どの様な経緯があって、前夫のある宝皇女が舒明天皇の妃となったのかは不明です。
ただ、前夫がいて、前夫との間に一子が生まれていることから考ると、舒明天皇の妃となる時には、宝皇女の年齢は少なくとも20歳位には、なっていたはずです。
また、同母弟の孝徳天皇との年齢差を、常識的に10歳程度までと考えて、宝皇女は10歳年上の姉であったと推定します。
以上の2点、宝皇女の年齢は少なくとも20歳位になっており、孝徳天皇の10歳年上の姉であったという点を併せて考えると、宝皇女は628年頃に20歳位で、舒明天皇の妃となったと推測出来ます。「本ブログの推定年齢」一覧を参照してください。
孝徳天皇の年齢は、孝徳天皇の子の有間皇子から推定しており、誤差が少ないと思われます。ですから、おそらく、宝皇女が20歳位の628年ころに舒明天皇の妃となったという推定に、大きな誤差は無いと思います。

また、第34代舒明天皇は、第33代推古天皇(大王)が病で亡くなる直前に、急遽、後を託され、天皇(大王)位を継いだとされています。つまり、舒明天皇は、たまたま天皇(大王)位を継いだように、日本書紀に記されています。

 

舒明天皇が天皇(大王)に即位して暫く後に、宝皇女を皇后に立てたと言う事は、皇后に相応しい正統な血筋を受け継いだ妻が、舒明天皇の即位時に、不在だった可能性があります。

舒明天皇が即位したのが629年1月4日で、宝皇女を皇后としたのは、翌年の630年1月12日です。もしも正統な血筋の宝皇女が以前から妃であったなら、1年もの間、皇后の座を空席にしているのは不自然です。舒明天皇の即位と同時に皇后に立てるのが、通常だと思います。
可能性として、舒明天皇の皇后に相応しい女性として宝皇女を選定し、前夫と子に決別して、舒明天皇の元に来るまでに、少し時間が必要だった、ということもあるかと思います。

以上の一連の推測から、宝皇女が22歳の時、630年から舒明天皇の妃となり、同時に皇后に立てられたと推定しました。
また、この推定結果は、中大兄皇子が645年の乙巳の変の時に20歳であったとされることが、ねつ造であると推定する根拠のひとつになると考えます。
630年に、前夫と一子のある宝皇女が22歳で舒明天皇の妃となった時、宝皇女の子である中大兄皇子が、既に5歳になっているはずがありません。

結局、「舒明2年(630年)1月12日に宝皇女を皇后とした」とする記述は、日本書記の編集担当者が、後世の歴史研究家のために、敢えて残しておいてくれたヒントのひとつだったのかも知れない、と私は思っています。

[中大兄皇子の年齢]
次いで、豊璋では無い、本物の中大兄皇子の年齢を推測してみたいと思います。本物の中大兄皇子の年齢に関連して、実は、私には、とても印象に残っている和歌との出会いがありました。本物の中大兄皇子が詠んだと思われる和歌です。ここで、その和歌を紹介させていただきたいと思います。

和歌が詠まれたのは、661年10月7日のこととされています。まず、その頃の状況をご説明します。
655年、孝徳天皇の死後、皇極天皇が、再び斉明天皇として皇位につきます。

660年、百済は、唐と新羅の連合軍との戦いで、滅亡の危機に瀕します。斉明天皇は、百済に援軍を送ります。
661年1月、斉明天皇は、百済救援の指揮を執るため、北九州へ赴きます。
661年7月24日、斉明天皇が亡くなります。
661年9月、後を継いだ中大兄皇子は、百済へ援軍を送ると供に、豊璋に五千の兵をつけて百済へ送り出します。

この時点で、豊璋は百済再興のため、朝鮮半島に渡っており、663年8月に白村江の戦いで敗れて日本に戻ってくるまで、日本に居るのは本物の中大兄皇子のみでした。
以下、日本書紀の記述です。

(661年)冬10月7日に斉明天皇の喪(遺体)、(海路で)帰路に就く。ここに、皇太子、ある所に泊まり、すなわち口ずさんで歌われた。

枳瀰我梅能、姑衰之枳舸羅爾、婆底底威底、舸矩野姑悲武謀、枳濔我梅弘報梨
君が目の  恋しきからに  泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り

あなたの目が恋しいばかりに、ここに船を泊めさせました。これほど恋しさに耐えられないのも、あなたの目を一目見たかったからです。

以上が、日本書紀の記述と、その現代語訳です。
上記短歌は、後世の作ではなく、中大兄皇子本人が詠んだ歌なのであろうと、私は感じています。
北九州から奈良へ帰る途中の、瀬戸内海の何れかの入り江に船を泊めさせて、中大兄皇子が、人目をはばからず、別れを惜しんだ時の様子です。
上記の現代語訳は、少し即物的に感じます。私は和歌に関しては、全くの素人なので、自信はありませんが、上記短歌を次のように感じました。

君が目の  恋しきからに  泊てて居て かくや恋ひむも 君が目を欲り

あなたの優しい眼差しが恋しいばかりに、ここに船を泊めさせました。それほどまでに、あなたの優しい眼差しを恋しく思い、心から探し求めてしまうのです。

この歌から、私は、優しい心を持った若い青年を感じました。男は何歳になっても、母親の前では子供だと思います。ですが、それでも、この歌から受ける印象は、日本書紀に記されているような、36歳の男のものには思えませんでした。
下の表を参照ください。
「推定年齢一覧-661年時点」の5行目にある中大兄皇子は、日本書紀では、661年時点で36歳となっています。

 

当初、私は、中大兄皇子は日本書紀にある年齢よりも、10歳以上は若いのではないかと思っていました。しかし、今回、推定年齢の一覧表を作って改めて検討した結果、丁度10歳若かったと推定し、上記一覧表の11行目にありますように、661年時点で26歳としました。

また、この中大兄皇子の年齢と関連し、同母兄弟の間人(はしひと)皇后と天武天皇(大海人皇子)の年齢を、上記一覧表の12行目と13行目のようにしました。
一覧表の12行目の間人皇后は、645年、乙巳の変の直ぐ後に、孝徳天皇の皇后となっています。この時点を、間人皇后14歳と推定しました。
一覧表の13行目の天武天皇(大海人皇子)は、660年に大田皇女との第一子である大伯皇女(おおくのひめみこ)が生まれたとされています。この時点を、天武天皇21歳と推定しました。

結果として、皇極天皇の3人の子は、
630年に皇極天皇が22歳で舒明天皇の皇后となる
632年生まれ 第一子 間人皇后
636年生まれ 第二子 中大兄皇子
640年生まれ 第三子 天武天皇(大海人皇子)
となります。
日本書紀にある、第一子中大兄皇子、第二子間人皇后、第三子 天武天皇(大海人皇子)とは順序は異なります。これは、中大兄皇子の年齢を実際よりも、10歳高く設定したために起こった矛盾です。

最後に、偽の中大兄皇子である豊璋は、遠智娘(おちのいつらめ)との第一子となる大田皇女が、643年に生まれたと思われます。この時点を豊璋21歳とし、645年の乙巳の変の時点では、23歳と推定しました。この場合、豊璋は631年に、9歳の若さで百済から日本(倭)に来たことになります。「推定年齢一覧-661年時点」の6行目を参照してください。

さて、天武天皇とその周囲の人々の年齢が、ここまではっきりとしてくると、モヤが晴れ渡ったように、すっきりとした気分で、日本書紀が読めるような気がします。
随分と、天武天皇とその周囲の人々の年齢の推定に手間がかかってしまいました。以下、乙巳の変の後の出来事です。

[乙巳の変の後の出来事]
軽皇子(かるのみこ)は、孝徳天皇として即位し、同時に間人皇女(はしひとのひめみこ)を皇后にしています。
一般的に言われている事として、間人皇女を孝徳天皇の皇后としたのは、皇極天皇の意志であり、実弟である孝徳天皇に、天皇としての血統上の正当性を与えるためだった、とされています。
その様な理由もあったのかも知れません。しかし、私は、それ以外の理由が主だったのではないかと思います。それ以外の理由とは、間人皇女を、中大兄皇子(豊璋)の手の届かないところに置く、という理由です。
この頃、中大兄皇子(豊璋)は、自らの血統上の正当性を得るために、手当たり次第に、高貴な血筋を受け継いだ若い娘や、幼い女の子を、続けて自分の妃にしています。中大兄皇子(豊璋)は間人皇女も、当然、狙っていたと思います。

孝徳天皇は、間人皇女を皇后とした後、
阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)を左大臣に、
蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を右大臣に、
中臣鎌足を内臣(うちつおみ)に、
それぞれ任じます。

それから3ヵ月後、皇位を辞退して出家していた古人大兄皇子は、中大兄皇子(豊璋)に謀反のかどで殺されてしまいます。
この時のことを日本書記には、「古人大兄皇子は子と供に殺され、妻は自害した」とする記録と、単に「古人大兄皇子は殺された」とする、2通りの記録の紹介がされています。
日本書記によくある記述形式です。結局のところ、古人大兄皇子の子である倭姫王(やまとひめのおおきみ)は殺されず、中大兄皇子(豊璋)の妻となりました。他の古人大兄皇子の家族は全て殺されたのではないかと思います。

この時、倭姫王は6歳位の子供であったと思われます。中大兄皇子(豊璋)が、天智天皇として668年に即位するときには、皇后となりますが、二人の間に子はできなかったようです。
天智天皇が671年に亡くなった後、天智天皇を偲ぶ、倭大后(やまとおおきさき)の挽歌が万葉集にあります。果たして倭姫王、本人が詠んだものだったのか、私はあまり考えたくありません。

【難波に遷都】
孝徳天皇は、645年6月に天皇(大王)に即位し、6ヵ月後の645年12月に難波に遷都しました。
難波に遷都したのは、阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)を右大臣に、それぞれ任じたことと、無関係では無いと思います。

[孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)との対立]
孝徳天皇が遷都した難波京は、現在の大阪府中央区一帯にあたります。そこから南に少し下ったところに、現在の大阪府泉大津市があります。この泉大津市近辺は、孝徳天皇の父である茅渟王(ちぬのみこ)の故郷であり、蘇我蝦夷(そがのえみし:蘇我入鹿の父)の地盤でもあったようです。
孝徳天皇は、自らの地盤とも言うべきところに移り、朝鮮人(百済王族)に、乗っ取られそうになっている大和政権を、何とか立て直そうとしていたのではないかと思います。
一般に言われているように、大化の改新を推進するために、新たな地に遷都したのではありません。

難波京に遷都した後、孝徳天皇と中大兄皇子(豊璋)との対立は、明らかとなります。
日本書紀に、「(649年)三月一七日に、阿倍左大臣が薨去(こうきょ)した。」とのみ記されています。
阿倍倉梯麻呂は中大兄皇子(豊璋)に殺されたものと思われます。阿倍倉梯麻呂の娘、橘娘(たちばなのいつらめ)は、とても若かったと思われますが、この時に、中大兄皇子(豊璋)の妻にされたようです。本ブログ記事の冒頭部に掲載した「近江朝編に関連する天皇家家系図」参照してください。

阿倍倉梯麻呂の死から一週間後の649年3月24日、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂が反乱を企てているとされ、中大兄皇子(豊璋)の差し向けた軍により殺されます。
蘇我倉山田石川麻呂臣は自殺、連座し斬り殺された者14名、絞首されたもの9名、流された者15名、その他自害した者多数であったとされます。
この後、蘇我倉山田石川麻呂臣の娘であり、中大兄皇子(豊璋)の妃であった遠智娘(おちのいつらめ)は、父の死を深く悲しみ、悲しむあまりに死んでしまった、と日本書記に記されています。

651年?月、健王(たけるのみこ)が生まれます。父は中大兄皇子(豊璋)、母は妃の遠智娘と日本書記に記されています。しかし、遠智娘は、前述のとおり、649年に亡くなっています。
これは、日本書紀の記載誤りでは無く、やはり、編集担当者が後世のために残してくれた、一種の「手掛かり」だと思います。
結論から申し上げますと、健王(たけるのみこ)は、中大兄皇子(豊璋)と間人皇后の子です。そして皇極天皇の、本当の初孫にあたります。そのため、皇極天皇は健王を、ことさらに寵愛したのです。
細かい経緯は、この後すぐご説明することとして、お話しを進めます。

653年?月、中大兄皇子(豊璋)は、皇極天皇、間人皇后、天武天皇、百官を引き連れ大和に戻ってしまいます。そして難波宮には孝徳天皇が一人残されてしまいます。
その後、孝徳天皇の亡くなる前、孝徳天皇から間人皇后に贈った日本書紀に載る歌があります。

かなきつけ あがかうこまは ひきだせず あがかうこまを ひとみつらむか
かなき付け 吾が飼う駒は  引き出せず 吾が飼う駒を  人見つらむか

かなき(逃げないように首につけるもの)を付け人目にもふれぬよう飼っていた私の若い馬をどうして他人に見初められてしまったのだろうか。

下の「推定年齢一覧-661年時点」表(再揭)をご覧ください。
間人皇后は、乙巳の変の直後に孝徳天皇の皇后になった時、まだ14歳位だったと推定されます。皇后となった当初は、夫婦の営みなど出来る年齢に達していなかったと思います。
それに加え、中大兄皇子(豊璋)の手の届かないところに、間人皇后を置いておくという意図もあったと思います。
それが、「かなき(逃げないように首につけるもの)を付け人目にもふれぬよう飼っていた私の若い馬」という部分の意味になると思います。
その若い馬を、他人=中大兄皇子(豊璋)に取られてしまった、という意味の歌になっていると思います。

 

654年10月、孝徳天皇、一人失意のなか難波宮でなくなります。36歳くらいの若かさだったと思われますので、中大兄皇子(豊璋)に殺された可能性もあるかと思います。
この時、孝徳天皇の皇子である有間皇子は15歳で、4年後の19歳の時に、中大兄皇子(豊璋)に殺されてしまいます。

【健王(たけるのみこ)は、天智天皇(豊璋)と間人皇后の子】
健王(たけるのみこ)は、父、中大兄皇子(豊璋)、母、妃の遠智娘と日本書記に記されています。
斉明天皇は、ことのほか健王を寵愛しました。健王は言葉が話せなかったといいます。何らか障害があったようです。
その健王が、658年に8歳で夭折した時に、斉明天皇は、非常に嘆き悲しみます。その様子は、日本書記に事細かく記されています。
以下、少々長いですが、日本書記からの引用です。

五月、皇孫建王(たけるのみこ)は八歳で亡くなられた。今来谷(いまきのたに)のほとりに、殯宮(もがりのみや)をたてて収められた。
天皇は皇孫が美しい心であったため、特に可愛いがられた。悲しみに堪えられず、慟哭されることがはなはだしかった。群臣に詔(みことのり)して、「わが死後は必ず二人を合葬するように」といわれた。そして歌を詠まれた。

今   城         小山                 雲               著         立         何     嘆
イマキナル、ヲムレガウヘニ、クモダニモ、シルクシタタバ、ナニカナゲカム。
今木の小丘の上に、せめて雲だけでもはっきり立ったら、何の嘆くことがあろうか。(その一)

射   鹿         繋      川 辺       若   草         稚                  我   思   無
イユシシヲ、ツナグカハヘノ、ワカクサノ、ワカクアリモト、 アガモハナクニ。
射かけた鹿のあとをつけて行くと、行きあたる川辺の若草のように、幼なかったとは私は思わないのに。 (その二)

飛   鳥川      漲                    行   水         間         無         思
アスカガハ、ミナギラヒツツ、ユクミヅノ、アヒダモナクモ、オモホユルカモ。
飛鳥川が水をみなぎらせて、絶え間なく流れて行くように、絶えることもなく、亡くなった子のことが思い出されることよ。(その三)

天皇はときどきこれを歌って、悲しみ泣かれた。

冬十月十五日、紀の湯に行幸された。天皇は建王のことを思い出して、いたみ悲しまれ、そして歌を口ずさまれた。

山   越         海   渡               面  白         今   城   内         忘         難
ヤマコエテ、ウミワタルトモ、オモシロキ、イマキノウチハ、ワスラユマジニ。
山を越え海を渡る面白い旅をしていても、建王のいたあの今木(いまき)の中のことは、忘れられないだろう。(その一)

海            潮         下        海   下         後         闇          置
ミナトノ、ウシホノクダリ、ウナクダリ、ウシロモクレニ、 オキテカユカム。
海峡の潮の激流の中を、舟で紀州へ下って行くが、建王のことを暗い気持で、後に残して行くことであろうか。(その二)

愛               我   椎     子      置         行
ウツクシキ、アガワカキコラ、オキテカユカム。
かわいい私の幼子を、後に残して行くことであろうか。(その三)

秦大蔵造万里(ほたのおおくらのみやつこまり)に詔(みことのり)して、「この歌を後に伝えて、世に忘れさせないようにしたい」といわれた。

以上、日本書記からの引用でした。
上記の文章を読むと、斉明天皇が、いかに強く健王の死を、悲しんでいるかが、よく伝わってくるかと思います。健王は、斉明天皇の本当の孫としか考えられません。
前掲の「推定年齢一覧-661年時点」をご覧ください。健王が生まれたのは651年です。649年には、難波で阿倍左大臣、蘇我右大臣が相次いで殺され、健王の母親とされる遠智娘が亡くなっています。
そして653年には、中大兄皇子(豊璋)が、皇極天皇、間人皇后、天武天皇、百官を引き連れ大和に戻っています。
その後、孝徳天皇の亡くなる前、孝徳天皇から間人皇后に贈った歌がありました。
もはやこれは疑う余地はありません。健王は間人皇后の子であり、斉明天皇(皇極天皇)の初孫に間違いありません。
やはりここでも、日本書紀の編集担当者が、健王の母親を遠智娘とすることで、後世に「手掛かり」を残してくれたように思います。

健王は斉明天皇、間人皇后と供に、越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に埋葬されています。

下の写真は、奈良県の、越智崗上陵の陵墓です。
宮内庁の案内板には、
斉明天皇
孝徳天皇皇后間人皇后
越智崗上陵
天智天皇皇子
 健王墓
と書いてあります。
 

 

 

【後書き】
今回の文章を書き上げるのに、随分と時間を要してしまいました。それまで頭で考えていたことを整理したり、表を作成して再考したり、などしているうちに、時間はかかりましたが、新たに認識出来た事実などもありました。
そのためか、今回書き上げた内容は、書いた本人の私にも、興味深い内容となりました。皆さんはいかがでしたでしょうか。
                                                                          
最後に書きました斉明天皇の越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ)に、斉明天皇と共に健王が同葬されたことは、日本書紀には記されていないためか、一般的にあまり認識されていないようです。しかし、宮内庁の案内板には、斉明天皇、間人皇后、健王が同葬されている事が明確に記されています。
今回のようなことを調べていると感じる事ですが、一般には知られていないような大昔の事や、隠された事実、一般に知られては不都合な事実などを、宮内庁や朝鮮(百済王族)系の支配者層の者達は、昔から語り継いだり、非公開の古文書などで、知っているのでは無いかと思うことがあります。

結局、飛鳥時代、奈良時代から日本の歴史がねつ造されて、今日に至っているわけですが、朝鮮(百済王族)系の支配は、江戸時代にかなり廃れたものの、明治維新から英国ロスチャイルドに操られながら復活し、太平洋戦争を経ても、今なお脈々と生き続けていると思います。

私はいずれ、日本の子供達に、正しい日本の歴史を教えられる日が来ることを願いつつ、このブログを書いています。
そして、いつの日にか、日本を千年以上も支配し続けた者たちが、隠し持っている本当の日本の歴史が、白日の下にさらされる日が来ることを念じています。