縄文文化がどようにして、後世の日本人へ、どの様な変遷を経て伝承されてきたのかについて、お話したいと思います。

「縄文文化の現代日本人への伝承」の1回目として、【01話】でお話しした「縄文人のDNAの特殊性」に関する追加説明と、弥生時代から奈良時代の歴史の流れの概要についてお話しします。


[日本人とユダヤ人が持つ共通の遺伝子について]

【01話】では、縄文人がどこから来たか、についてお話ししました。

ホモサピエンスは、20万年前にアフリカから世界へ拡散する過程で、現在の中東付近で、今から5~10万年前頃に、ネアンデルタールと出会い混血しました。

ネアンデルタールと、最も多く混血したヒトが、2万年前頃に日本列島に辿り着き、縄文人となります。

一方で、縄文人になったヒト達と同様に、ネアンデルタールと多く混血し、中東に残った人々の一派がいたものと思われます。
その一派が、ユダヤ人であると、私は考えています。
以前より、日本人とユダヤ人の人種の関連性が取り上げられてきましたが、そのことについて、私の考えを述べておきたいと思います。

ホモサピエンスが世界に拡散し始めた最初の頃に、ネアンデルタールと混血したホモサピエンスは、後に縄文人、ユダユ人、その他少数の民族となったと推定されます。

その後に、アフリカから拡散したホモサピエンスは、ネアンデルタールとはほとんど混血せず、ほぼ純粋のホモサピエンスとして世界に拡散したようです。

ネアンデルタールと混血したホモサピエンスと、混血していないホモサピエンスとでは、人種や民族として持つ特性が異なる部分があると思います。
また、ネアンデルタールと多く混血したホモサピエンスは、YAP遺伝子を持っているというDNA上の特徴があると、私は推測しています。

紀元前722年に北イスラエル王国が滅亡したとき、ユダヤ民族の失われた10部族の一部が、日本に渡来し、ユダヤ人の文化やYAP遺伝子などを日本人にもたらしたとされる説があります。

確かに、ユダヤ人が、いつの時代かは定かではありませんが日本に渡来し、菊の紋章や神輿(みこし)、言語やその他の文化面などで影響を残した可能性はあると思います。
しかし、ユダヤ人と日本人が持つとされるYAP遺伝子は、ユダヤ人が日本に渡来して日本人にもたらす遙か以前に、縄文人はYAP遺伝子をネアンデルタールから受け継いでいたと、私は考えています。

つまりYAP遺伝子は、ユダヤ人が日本に渡来して来て、日本人と交雑することで、日本人もたらされたものでは無く、ネアンデルタールから、何万年も前に、縄文人と古代ユダヤ人が同様に受け継いだものだった、ということです。
そして、多分、縄文人の方が、古代ユダヤ人よりも、YAP遺伝子を始めとするネアンデルタールのDNAを、より多く受け継いでいたのではないかと思います。


そして、ユダヤ人が日本に渡来したのは、縄文人の祖先が、ユダヤ人の兄弟のような存在であり、何万年も前に、中東の地から日本列島や、太平洋の島々へ移動していったことを、ユダヤ人が憶えていたからでは無いかと思います。
ユダヤ人は、祖国が滅亡した時、その多くが、自分たちの兄弟のような人々が住んでいる、日出ずる国「日本」を目指して、東へと移動して行ったのではないでしょうか。

ちなみに、現代に残る純粋な血筋のアメリカインディアンの中には、日本人とアメリカインディアンは兄弟のような関係にあることを知っている人がいます。
アメリカインディアンの祖先が、数万年前に日本列島で縄文人となった人々から枝分かれして、アメリカ大陸に渡り、アメリカインディアンとなったことを、彼ら自身が未だに憶えているのです。

言い伝えによって知っているのか、過去の出来事を知ることが出来る人がいるので知っているのか、どちらかだと思います。
いずれにせよ、アメリカインディアンは、日本人と兄弟のような関係にあることを知っている人がいます。

ですから、古代のユダヤ人も、日本列島で縄文人となった人々が、自分たちの兄弟のような存在であることを知っていても不思議では無いと思います。

また、ここまで話しが進むと、アメリカインディアンにYAP遺伝子があるのか気になりますが、現在のところ、その様な研究結果を私は知りません。
ただ、古代アメリカインディアンのDNAが、日本の縄文人とほぼ同一であったとする研究結果がありますので、アメリカインディアンにもYAP遺伝子があるのでは無いか思います。

蛇足ですが、偽ユダヤ人のDNAの88%近くが、ユダヤ人と同じで、偽ユダヤ人もYAP遺伝子を持っているという研究結果があり、遺伝子学者全般はそのことを知っているというような話があります。
しかしながら、それは地球温暖化説と同じの、でっち上げではないかと、私は考えています。
血(DNA)を研究材料として提供することで、自分たちの由来が解ってしまう可能性があるのですから、偽ユダヤ人達が自分たちの血(DNA)を研究用に提供するはずは無いと思います。


[弥生時代から奈良時代の出来事(概要)]
縄文文化が、どのように後世の日本人に伝承されたかをお話しするにあたり、弥生時代から奈良時代の歴史的出来事の概要を再確認していきたいと思います。
以下の「弥生時代~奈良時代」の年表をご覧ください。


 

[神武天皇の即位年を特定する]
この年表で、最も重要な点は、初代天皇である神武(じんむ)天皇が、ヤマト(奈良)で即位した皇紀元年が、紀元前660年ではなく、紀元29?年となっていることです。

一般的に皇紀元年とされている紀元前660年は、日本書紀に記されている歴代天皇の在位年数から逆算して、初代神武(じんむ)天皇の即位年を算出しています。

ところが、算出の元となる、日本書紀に記されている歴代天皇の在位期間のうち、古い時代の天皇の在位期間の多くが、明らかに異常に長いのです。

例えば、初代の神武天皇の在位期間は79年となっています。
以下同様に、特に在位期間の長い天皇を挙げますと、
第5代孝昭天皇83年、
第6代孝安天皇102年、
第7代孝霊天皇76年、
第10代崇神天皇68年、
第11代垂仁天皇100年、
第14代仲哀天皇78年、
第16代仁徳天皇87年、などとなっています。

第31代の用明天皇以降は、即位した年度と在位していた年数の記載が、正確であるとされています。
第31代の用明天皇から第60代の醍醐天皇までの、30代に及ぶ天皇の、平均在位年数が11.5年です。

それに対し、初代の神武天皇から第30代の敏達天皇までの、日本書紀に記された在位年数の平均は、41.5年になり、明らかに不自然です。

日本書紀は、日本の正史です。
基本的に、日本書紀に書かれている内容の多くは、歴史的事実であると、私は考えています。
初代の神武天皇から、歴代の天皇そのものの存在に嘘はなく、在位年数が、間違っていると、私は判断しています。

そこで、初代の神武天皇から第30代の敏達天皇までの平均在位年数を、妥当な年数に代えて計算し直しました。
そうしますと、初代神武天皇の即位年は、おおよそ紀元290年~300年頃になります。

この、神武天皇の即位年は、私はかなり現実に近いものと考えています。
前後に起こった歴史的な事実との関連性も、整合性が取れてきます。


[弥生時代から古墳時代へ]
前述のように、神武天皇が登場するのは、古墳時代になってからです。

古墳時代以前の弥生時代は、邪馬台国の卑弥呼が登場するまでは、日本国内には、小国が多数乱立し、相争っていたとされています。

[弥生時代から古墳時代へ:西日本]
小国が多数乱立し、相争う状況は、主に西日本に於いてのことだったようです。
この場合の西日本は、関西地域から九州までの範囲を指します。

弥生時代の最後の頃に、邪馬台国の卑弥呼が登場し西日本に、人口200万人を大きく超えるような規模の連合国家が出現したと、私は推測しています。
「魏志倭人伝」に記載されている、卑弥呼の連合国家に属する各国の戸数から、人口数を推計することができます。
ちなみに、この当時の日本列島全体の人口はおよそ600万人程度とされています。

邪馬台国の卑弥呼の国家は、地域毎の小国家の王が集まり、卑弥呼を長とした、王たちの合議制の連合国家を形成していたようです。

邪馬台国の場所は現在の奈良であったと、私は推定しています。

ところで、「魏志倭人伝」に登場する女王卑弥呼の「やまたい」国は、本来は「やまと」国と発音されるべきであったことをご存知でしょうか。

中国では、外国人が発音する固有名詞などに関して、中国人が聞こえる発音に最も近い漢字をあてて記録していました。
日本で言うところの「邪馬台(やまたい)」国を表記する時、「魏志倭人伝」では、本来は「邪馬臺(やまと)」国と表記すべきだったことが解っています。
ところが実際は、「邪馬壹(やまい)」国と表記されました。

日本では、「邪馬壹(やまい)」の「壹(い)」を「台」と表記し、一般的に「邪馬台(やまたい)」国と読ませています。

話を戻します。
本来は「邪馬臺(やまと)」という文字を使うべきだったのですが、「魏志倭人伝」編纂当時の中国では、「臺(と)」は、天子の宮殿などを意味していました。
そこで、「臺(と)」という貴い文字の使用を避け、代わりに「壹(い)」という文字をあてて、「邪馬壹(やまい)」国としてしまったのです。

このことは、中国の歴史学者は、一般的に知っていることのようです。
日本の歴史学者は、単に知らないのだけなのか、敢えて無視しているのか、どちらかは解りません。
多分、明治政府にとって(現政府も同じだと思いますが)は、紀元前660年の初代神武天皇より、遙かに後の、西暦239年に、ヤマト(奈良)を中心とする、女帝国家があってはならないと言うだけの理由だと、私は理解しています。

いずれにせよ、卑弥呼の遣わした使者は、当時の中国の魏で、「やまと」国から来た、と言っていたことは間違い無いようです。

私が「邪馬台国」はヤマト(奈良)の地にあったと考えている根拠はこれだけではありません。
長くなりますので、全ての根拠をここではお話はしませんが、今後は、「邪馬台国」はヤマト(奈良)の地にあった、としてお話を進めさせていただきます。

[弥生時代から古墳時代へ:関東地方]
詳細は不明ですが、関東地方では、関東地方全域での地域連合国家が形成されていたようです。

関東地域の連合国家の中心的存在は、千葉県から茨城県にかけての地域を支配していた国だったようです。
千葉県から茨城県にかけて存在した、この国の名称は、日本史から意図的に消されてしまいましたが、日立ち上(ひたちのぼ)る国という意味で、「日立」という名称であったと、私は推測しています。
千葉県から茨城県の海岸線付近は、日本列島本州の最東端であり、最も早く日が立ち上る国であったため、太陽崇拝の人々からは、神性な土地とされていたと思われます。

現在でも、「日立」は茨城県の地名としてありますし、大手企業の会社名ともなっています。
もともとは古代の小国家の名称だったのです。
この古代の小国家の名称が、後に日の本(ひのもと)の国、「日本」という国家の名称のお手本になったと、私は推測しています。

[弥生時代から古墳時代へ:東北地方]
東北地方では、村落単位程度の小集団が複数集まって、地域社会を形成し、平和的に暮らしていたようです。
関東地方、東北地方はいずれも、縄文的要素を残していましたが、東北地方の方が、より縄文的要素が強かったようです。

この頃から、関東地方、東北地方の人々は、西日本の人々から、蝦夷(えみし)と呼ばれるようになります。

[弥生時代から古墳時代へ:関東地方、東北地方の鉄器製造]
関東地方、東北地方ともに、西日本ほどではありませんが、大陸からの渡来人が入って来ていたようです。
また、弥生時代から既に、関東地方、東北地方ともに、鉄器の製造が始まっていたようです。
関東地方から東北地方にかけての鉄器の生産は、主に新潟県の現在の三条市から、広められたのでは無いかと、私は考えています。
三条市は今でも鉄器生産で有名なところです。

三条市から西南方向の海岸に「出雲崎」というところがあります。
大昔、この「出雲崎」の海岸に出雲地方から海路で輸送された銑鉄(せんてつ:鉄の原料)が陸揚げされていたとの記録があります。

出雲地方は、日本で最初に、砂鉄から鉄器製造を開始した場所と考えられています。
出雲地方での、鉄器製造の開始時期は諸説ありますが、弥生時代中期には、始まっていたのでは無いかと思います。

一方、「出雲崎」に、いつ頃から鉄の原料が輸送され始めたのかは不明とされていますが、出雲地方の、鉄器製造開始時期と同じ頃には、輸送が始まっていたと考えて良いと思います。

新潟県から出雲地方の海岸線は、縄文時代から海上輸送が盛んで、物品や技術などの交流も盛んでした。

古墳時代の最初の頃に、「出雲の国」の王であった「大国主命(おおくにぬしのみこと:出雲大社の祭神)」が、新潟県から福井県一体を支配していた「越の国」の巫女女王、「奴奈川姫(ぬなかわひめ)」のもとを訪れ求婚し、結婚したという話があります。
それ程に、出雲から新潟にかけては、密接な関係があり、昔から往来が多かったのです。

ちなみに、「奴奈川姫(ぬなかわひめ)」の本拠地は糸魚川で、ここでは、縄文時代からずっと、翡翠の勾玉の製造を行っていました。
天皇家の3種の神器のひとつである翡翠の勾玉は、糸魚川で産出、製造されたものとされています。


[次回]
お話が長くなってしまいました。
弥生時代から奈良時代の出来事の概要について、まだ途中ですが、今回はここまでとさせていただきます。

次回はなるべく早い時期に、「古墳時代の出来事の概要」の続きからお話ししたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。