[はじめに]

アメリカで銀行の破綻が、とうとう起こってしまいました。

これから金融崩壊の始まる可能性があるかと思います。

今年中に、アメリカのデフォルトもあり得るかも知れません。

 

しかしながら、そのような混乱は通過点に過ぎず、最終的には、悪が取り除かれ、世界の多くの人々にとっては、良い結果が訪れるものと、私は信じています。

 

世の中は騒然としているものの、氣を落ち着けて、今はブログ記事を書くことに専念したいと思います。

 

今回は、「縄文人の生活・文化・神様観など」の3回目として、「縄文人の神様観」に付いて、お話しします。


 

[前回までの内容]

これまでにお話ししてきた内容は、以下の通りとなります

1.我々日本人の祖先である縄文人がどこから来たのか

2.母音言語という特種な言語を、ネアンデルタール→縄文人→今の日本人と受け継いできた

3.日本人は縄文人の生活様式を、意外にも多く受け継いでいる

4.縄文人の文化や精神性の面でも、日本人は意識すること無く、多くを受け継いでいる

 

 

[縄文人の神様観を推定するにあたり]

縄文人の神様観がどのようなものであったかと言う、考古学的な研究結果が少ないため、以下の関連資料を参考に推定しました。

・神社の神道(しんとう)の考え方

・日本書紀や古事記の記述

・アメリカ・インディアンの神様観

 

 

[神社の神道(しんとう)]

神社の「神道(しんとう)」をご存じでしょうか?

「神道」は、アニミズム的な民族宗教とされています。

アニミズムとは、生物、無生物を問わず、霊魂が宿っている、とする考え方のことです。

 

「神道」は、世界の一般的な宗教のように、「教祖」や「経典」がありません。

「八百万(やおよろず)の神」という考え方と、「全ての物に神は宿る」と言う概念はありますが、教義などは特にありません。


私は、「神道」は一般的に言うところの宗教ではないと考えています。

「神道」は、縄文人が考えていた神様の概念を、ほとんどそのまま受け継ぎ、時代の変遷と伴に、神社の建物の様式や、お参りや祈願の時の作法、などの形式が付け加えられてきた「宗教的」なものと、私は解釈しています。

 

神社そのものや、神社に祭られている神様、神道の考え方などは、縄文人の神様観を知る上で、とても参考になります。

 

 

[日本書紀や古事記]

日本書紀や古事記は、名前は知っていても、実際に読んだことのある方は少ないかと思います。

 

古事記は西暦712年、日本書紀は西暦720年に編纂が完了しました。

どちらも内容的にはほぼ同じで、古事記は国内一般向けの歴史書、日本書紀は対外国向けの正規の歴史書です。

この場合の外国とは、日本書紀が完成した当時の中国(唐)、朝鮮(新羅)のことを指します。

 

日本書紀、古事記のどちらも、最初に神話の記述があり、次に初代の神武(じんむ)天皇から歴代天皇の来歴や業績などについて書かれています。

 

これらの書からも、縄文人がどのような神様観を持ち、どのような神様を崇めていたか、垣間見る事の出来るような、暗示的な記述があります。

 

 

[アメリカ・インディアンの神様観]

アメリカ・インディアンは、およそ2万年前に縄文人から枝分かれして、アメリカ大陸に渡った人々とされています。

古代のアメリカ・インディアンのDNAが、縄文人のDNAとほぼ一致していることも確認されています。

現在においても、純粋な種族として存続しているアメリカ・インディアンの神様観は、出版物などの資料が多数あります。

縄文人の神様観を類推するにあたり、重要な参考資料となります。

 

 

[縄文人の神様観]

さて、いよいよ本題である、縄文人の神様観のお話をします。

 

縄文人の考えていた神様は、今の私たち日本人が、心の奥底に抱いている、神様の概念に近いものであったと推定しています。

大きな項目として、以下の3項目となります。

 

・全ての物に神は宿る

・人の中にも神は存在し、男より女の方が神性が高く、より幼い者ほど神性が高い

・神は夢の中に現れ、病気の治療法や薬草、将来起こる出来事などを教えてくれることがある

 

以上の3項目をご覧になって、「何だ、普通の感性ではないか」と思われた方も、中にはいらっしゃるかと思います。

そのように思われてしまうほどに、我々日本人は、縄文人の感性をそのまま受け継いでいるのだと思います。

 

以下、項目ごとにご説明します。

 

 

[全ての物に神は宿る]

縄文人は、人を含む全ての生物と、火、水、山、石などの無生物も含め、すべての物に神が宿ると考えていました。

 

アイヌの人々は、縄文人のDNAに近いことが確認されており、生活習慣も縄文人に似ていると考えられています。

そのアイヌの人々が、かつて熊を狩るとき、「神が姿を変えて熊となって表れ、我々に食料をもたらしてくれる」として神に感謝したそうです。

この様に、縄文人も、自分達が食べる生き物にも神が宿る、という考え方をしていたのではないかと思います。

この縄文人の考え方が後世に伝わり、日本人は、食事の時に、神様に感謝の気持ちを込めて、「いただきます」と言うのだと、私は認識しています。

神様への感謝の気持ちは、今はあまり意識はしていないとは思いますが。

 

火や水にも神様が宿るという感性は、今の日本人には少し縁遠い感性となってしまったかも知れませんが、少し前は、普通に感じていたことでした。

例えば昔は、竈(かまど)のあるところには、ほぼ必ず神棚があったものです。

このような感性は、縄文人から受け継いだものと考えられます。

 

 

ところで、日本書紀と古事記に、「国生み神話」というものがあるのをご存知でしょうか。

「いざなぎ」と「いざなみ」の神が、共同で日本の国土を生んだという神話です。

 

「国生み神話」を普通に読んでいると、単なる神話のように思ってしまいます。

しかし、実は大変に深い意味が隠されており、一語一句をよくよく注意して読み解いて行くと、縄文人の崇めていた神様が記述されている事に気付きます。

多分、このことに気付いたのは私だけだと思います。

 

「国生み神話」で記述されている、「縄文人の崇めていた神様」についてご説明するにあたり、前提知識として、日本列島形成の過程について、ご説明します。

 

以下は、地質学的調査から判っている日本列島形成の過程です。

下図にありますように、日本列島はおよそ1億5千万年前頃に、シナ大陸の沿岸部分が剥がれるように分離し、現在の日本海を南下しました。

現在の位置へ移動途中に、日本列島は東西に分裂します。

 

その後、西日本は右回転しながら、東日本は左回転しながら再び合体し、現在のような、逆「くの字」の形状となり、2万年前頃に、現在の位置に収まりました。

以前、NHKで、この日本列島形成の過程が放送されたことがあるので、ご存知の方もいらっしゃるかと思います。

縄文人達が日本列島に辿り着いたのが2万年前頃ですので、縄文人達がこの地殻変動を知っているはずはありません。

しかし、縄文人達は、この地殻変動があったことを知っていたと、私は考えています。

多分、縄文人は、過去に起きたことを知る特殊な能力があったか、神様に教えてもらったかのどちらかで、知っていたのであろうと、推測しています。

 

下の絵をご覧ください。

縄文人達は、西日本の大地の神様である女性神の「いざなみ」と、東日本の大地の神様である男性神の「いざなぎ」が、合体して出来たのが日本列島であるとして、そのことを言い伝として残したと、私は考えています。(縄文人が神様の名前を「いざなみ」、「いざなぎ」としていたのかは判りません)

 

その言い伝えが、日本書紀に比喩的な表現ではありますが、はっきりと記述されています。

日本書紀の記述に、「天御柱(あまのみはしら)を中心に、「いざなみ」の神は右回りして、「いざなぎ」の神は左回りして合体しましょう」という下りがあります。

ここで言うところの、天御柱(あまのみはしら)にあたるのが、西日本側の千葉県にある香取神宮と、東日本側の茨城県にある鹿島神宮であると、私は推定しました。  

現在、香取神宮と鹿島神宮の距離は、直線で13Km程度です。

 

日本書紀と古事記の記述から日本列島の形成過程を推測すると、以下のようになります。

西日本と東日本の陸地が衝突し、日本列島の合体が始まると、太平洋側にある香取神宮と鹿島神宮の部分が密着し、ガッチリと固定されました。

この部分が扇の「要(かなめ)」のように中心となり、西日本が右に、東日本が左に、それぞれ回転しながら合体していきます。

太平洋側は固定された状態で安定しましたが、日本海側の大地は重なるように、激しく衝突します。

日本海側の激しく衝突した部分は、現在の新潟県の糸魚川市付近一帯です。

その衝突が、押しとどめられたのは、現在の「白山」付近です。

「白山」で押しとどめられたことも、日本書紀に比喩的な表現で記述されています。

糸魚川市付近は、翡翠の産地です。

翡翠は、大規模な地殻変動が起きているときに、同時に海水が流入するような、まれな状況で形成される、世界的に見ても希少な宝石です。

このことから、糸魚川市付近が、激しく衝突した場所であると推定できます。

 

香取神宮と鹿島神宮には、それぞれ「要石(かなめいし)」と呼ばれる、地面から一部分が露出したように見える石が祭られています。

この石の下に繋がる地中の岩の部分は、いくら掘っても掘り出せないほどの大岩で、香取と鹿島の地を安定させている、という言い伝があります。

下の写真は香取神宮にある「要石」です。

各地の神社を巡って調べるなどした結果、縄文人の末裔とも言える東北地方の「蝦夷(えみし)」達が、香取と鹿島の地にある「要石」を神聖な場所として崇めていたことが解りました。

 

「蝦夷(えみし)」とは、縄文人の血筋と生活様式を色濃く残したまま、大和朝廷の統治に服さなかった、主に東北地方の人々のことです。

 

西暦720年頃までは、

・香取神宮と鹿島神宮は、双方とも神社の格でした。

・「鹿島」は「香島(かしま)」と、表記されていました。

・香取神社には「いざなみ」の神が祭られ、香島神社には「いざなぎ」の神が祭られていたと、私は推定しています。

 

西暦720年頃に、香取神社、香島神社のそれぞれが、香取神宮、鹿島神宮に昇格すると伴に、全く別の神様が祭られるようになります。

御祭神が変えられてしまったのは、大和朝廷や、特に藤原氏の強い意向によるものと私は理解しています。

これ等の詳しい経緯につきましては、後で別の回に、詳しくご説明いたします。

 

以上のように、縄文人達は、全ての物に神が宿るとし、神様に関連する重要な場所を、神聖な場所として崇めていました。

このような縄文人の振る舞いは、宗教という形式的なものの表れでは無く、縄文人が、神様の存在を当然のことと認識し、神様を敬っていたことの表れであると、私は考えています。

 

神社は、元々は縄文人が、神様を敬うに相応しい場所を、神聖な場所としたのが始まりです。

弥生時代以降、その様な場所に、現在のような神社の、建物などの様式や儀式などの形式が付け加えられ、形が整えられてきたものと考えられます。

後には、次第に人が神として、神社に祭られるようになります。

これは、縄文人達がしなかったことです。

 

 

[人の中にも神は存在し、男より女の方が神性が高く、より幼い者ほど神性が高い]

戦後の意図的な唯物主義的な教育により、神様の存在を否定する人が増えてきました。

とは言うものの、一方で、「人には魂がある」とする概念は、日本人の大半が、一般的に抱いている感覚だ思います。

 

縄文人達は、人には魂があり、魂は神様と繋がっていると考えていました。

その概念は、薄れてきているものの、やはり日本人の多くの人々の心の内に残っていると思います。

 

男性よりも女性の方が、そして、より若い方が神性が高いとする感性は、日本人にとって、意外と普通に持っている感覚ではないかと思います。

 

神社では、繁忙期に手伝いをする人は、ほとんどが女性(巫女)です。

そして、神社関連の行事では、より若い女性が、行事の実行者などに選ばれることが、多くあります。

 

例えば、歴代の天皇が即位後に、ただ一度だけ執り行う大嘗祭(だいじょうさい)の行事では、昔は「童女」が行事の実行者として選ばれていました。

大嘗祭は、主に五穀豊穣を願って執り行われる行事で、その起源は縄文時代や弥生時代に遡るとされています。

 

縄文人の、神様に対する考え方や概念は、天皇家の神事の作法や、日本人全体の意識に引き継がれ、後世にまで伝わったと考えられます。

 

このような、縄文人の文化や精神性を後世に伝えることに、大きな役割を果たしたのが、出雲族と物部(もののべ)氏でした。

出雲族は、弥生時代(BC1000年~西暦250年)から古墳時代(西暦250年~600)にかけて、現在の島根県を地盤として栄えた豪族です。

物部氏は古墳時代(西暦250年~600)に現在の奈良を主な根拠地として栄えた豪族です。

物部氏は、元々は今の長野県諏訪湖周辺を地盤としていたようですが、出雲族に協力して、奈良に進出した豪族のようです。

 

出雲族と物部氏が、縄文人の文化や精神性を引き継ぎ、それを大陸からの文化や文明と融和させると伴に、日本の「国家」の基礎を築き上げた人々であったと、私は考えています。

 

その偉大な業績は、日本書紀や古事記の編纂が始まった当初、歴史的な事実として、日本書紀や古事記に記載されるはずだったと思われます。

ところが、実際には、そうなりませんでした。

 

日本書紀や古事記に記載されるはずだった歴史は、在る部分は書き換えられ、在る部分は消されてしまいました。

この歴史のねつ造を主導したのは、藤原氏でした。

そして当時の天皇家も、これに深く関わっています。

 

その背景には、朝鮮人(百済の王族)による日本の乗っ取り、日本支配があったと私は考えています。

朝鮮人による日本支配の構造は、形を変え、今もなお続いています。

この事実を、日本人の多くが知るようにらなければ、日本人が騙され、搾取され続けるような社会が終わることは無いと思います。

できることなら、多くの日本人に知ってもらいたいと思います。

 

日本書紀の編纂が完了(西暦720年)した頃の、朝鮮人(百済の王族)による「日本乗っ取り」の事実は、別の回に、詳しくお話しさせていただきます。

 

下の写真をご覧ください。

出雲大社(いずもおおやしろ)の拝殿です。

これほどまでに大きく見事な「しめ縄」は、他所で見ることはできません。

この大きな「しめ縄」は、出雲族が、縄文人の精神性を多く受け継いだ証であると、私とは思っています。

出雲大社を「いずもたいしゃ」と音読みせず、「いずもおおやしろ」と訓読みするところも、縄文人の文化や精神性を強く受け継いでいることを表しています。

 

 

神は夢の中に現れ、病気の治療法や薬草、将来起こる出来事などを教えてくれることがある

縄文人は、神様が夢の中に現れ、病気の治療法や薬草をの作り方、未来や過去の出来事を教えてくれたりすることがあると考えていました。

 

そして、その様な神様とのつながりは、実際にあったことだと、私は考えています。

 

「夢の中に神様が出てきて、治療法や薬草などを教えてくれる」ということを、にわかには信じがたい、という方もいらっしゃるかと思います。

私も、或る、一連の出来事を経験するまでは、夢に神様が出てくる等ということを、考えたこともありませんでした。

 

しかし、一連の出来事を経験することで、私は、神様が夢に出てくるかどうかを問わず、治療法などの、人にとって必要な知識を教えてくれることがあるということを、実感したことがあります。


私が経験した一連の出来事は、今からお話しするには少し長くなりますので、次回に、お話しさせて頂きたいと思います。

 

いずれにしましても、人と神様のつながりは、古代においては、今よりもずっと強いものでした。

そして、縄文人は本当に、病気の治療法や、未来や過去の出来事などを神様から教えてもらっていたと、私は考えています。

 

 

[まとめ]

私は「縄文人の神」というテーマで、神様について調べた末に、古代では、神様が身近な存在であったことが、よく理解出来るようになりました。

 

ところが、今の世の中では、神様を身近に感じることは、ほぼ無いと思います。

「神様などいない」という方も多いかと思います。

神様というのは、科学の発展に伴い、非科学的なものとなってしまい、次第に不要なものになってしまったのでしょうか?

 

私は、神様について、古代から歴史を追って調べていて、思いあたることがありました。

それは、過去からずっと意図的に、人と神様を引き離そうとする、悪意の力が働いてきたのではないか、ということでした。

 

最初にそのようなことを感じたのは、中世ヨーロッパの魔女狩り(15~17世紀)でした。

魔女狩りで、処刑をされた人の多くは、病気を治したり、出産を助けたり、失くしたものを見つけたりするなどの、特殊な能力を持った、主に女性だったそうです。

 

彼女たちを捕まえて、拷問で魔女であると自白させ、残酷な処刑を主導したのは、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会でした。

 

当時のカトリック教会は、既にハザールマフィアに支配されていたと、私は考えています。

 

ハザールマフィアとは、10世紀頃に周辺国によって滅ぼされたハザール王国から逃げ出した、王国の支配者層(=犯罪者集団)のことです。

彼らは逃れた先の、欧州の支配層に潜入していきます。

ハザールマフィアは、元々サタニスト(悪魔崇拝主義者)でしたが、表面上はユダヤ教徒を装って(偽ユダヤ)おり、今ではグローバリスト、ディープステートと呼ばれている人々です。

ハザール王国は、現在のウクライナとその周辺地域を領土としていた王国でした。

 

ヨーロッパ中世の当時、支配者層に潜り込んでいたハザールマフィアにとって、一般民衆を意のままに操り、搾取するにあたり、病気を治すなどの特殊能力を持つような、民衆に信頼されていた人々は、邪魔な存在だったはずです。

特に、民衆に信頼されたそれらの人々が、神様との繋がりが強かった(と私は考えています)ということが、何よりも許せなかったことだと思います。

 

 

日本においては、ヨーロッパの魔女狩りように激しいものは無かったかと思いますが、一般民衆の知恵であった薬草や自然療法の知識が、民衆から取り上げられ、お寺の僧侶の手に委ねられていった経緯があります。

 

物部氏が祭祀をほぼ独占していた日本古来の「神道」に対抗する「宗教」として、仏教が古墳時代(西暦250年~600年)に日本に導入されました。

仏教が、支配者の国策として、最も盛んに推進されたのは、朝鮮人(百済の王族)による日本の乗っ取り、日本支配が完成した、聖武(しょうむ)天皇(西暦724~749年)の時代であったと思います。

聖武(しょうむ)天皇の時代に奈良の大仏が完成しています。

 

この頃から長い間、民衆からの搾取が激しく行われ、国民は疲弊し、天皇家や貴族、特に藤原氏は栄華を極めます。

一方で、治安は非常に悪化しました。

多分、奈良時代から平安時代にかけては、神武天皇以来の日本の歴史の中で、最も治安の悪化した時代だったのでは無いでしょうか。

 

日本の場合、このような、人と神様を引き離すような、悪意ある作用は、明治維新以降、そして第2次大戦以降と、益々加速し、現在に至っていると思います。

 

今の私たちは、神様から大分引き離されてしまい、神様が授けてくださった知恵の数々を忘れてしまったように思います。

しかし、その一方で、コロナウィルス、コロナワクチン、昆虫食、世界統一政府、民衆の家畜化等々の、様々な陰謀に直面することで、少しずつではありますが、私たちは、神様から与えられた知恵を思い出し、目覚めつつあるようにも思います。

 

私たちは、今まで長い間、悪意ある者達に支配され、搾取されてきました。

日本人の多くが、気がついた時に、私たちがようやく解放される時が来るように思います。

 

日本人が悪意ある者達の支配から解放されたあと、いずれ、搾取されない豊かな良い社会になると、私は信じています。

その時に、神様が身近に感じられるような、心豊かな社会になれば良いな、と私は

勝手に思っています。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました。