これから3回に渡り「縄文人の生活・文化・神様観など」に付いて、お話して行こうと思っています。

1回目の今回は、「縄文人の生活」に付いて、お話します。

2回目に「縄文人の文化」、3回目に「縄文人の神様観」についてと、順次、お話ししたいと思います。

 

 

随分と以前から、私は各地の縄文博物館を訪れるなどして、縄文人や縄文文化などについて調べてきました。

その結果、解ったことは、縄文時代の文化・文明が、非常に古い時代のものであるにも関わらず、とても優れた文化・文明であった、ということでした。

また、意外に思ったのは、1万年以上も前の縄文時代の様々な技術や生活様式が、現代の日本人に、ごく普通に引き継がれている部分が多々あるということでした。

同時に、縄文人から引き継いだ技術や考え方、生活様式などが、世界の中で、日本人の特殊性となっている事にも気が付きました。

日本人の言語が、縄文人から受け継いだ母音言語であることも、そのひとつです。

 

不思議に思ったことは、世界最古とも思われる、縄文時代の文化・文明の素晴らしさが、何故、教科書に載ることもなく、現在の私たち日本人に、ほとんど知らされることもないのか、ということでした。

縄文時代の考古学的研究・調査は、各地域で熱心に行われており、縄文時代の文化・文明に関する重要な研究結果が数多く報告されています。

それにもかかわらず、政府や大手マスコミは、そういった重要な研究成果を、殆ど無視しています。

学会でも、新たな研究成果には否定的な場合がほとんどです。

これは、太古の日本に非常に優れた文化・文明があり、その文化・文明を生み出した縄文人が、私たち日本人の祖先であったことを広く知られないように、政府や大手マスコミ、学会が意図的に隠しているからだと、私は認識しています。

 

私たち日本人の祖先である縄文人は、1万4000年以上の永い年月に渡り、いたって平和的に時を過ごし、優れた文化や文明を紡いできました。

その優れた資質は日本人に、確実に受け継がれていると思います。

 

今は、偽りの世界が終わり始め、新しい時代に変わって行く混乱期を迎えている時代であると思います。

日本人として、縄文人から受け継いだ優れた資質を再認識することは、これからの混乱期を乗り越えて、新しい社会を創り上げる精神的な支柱になるものと信じています。

 

以下、縄文時代の特徴を、簡潔に説明したいと思います。

日本人に受け継がれたと思われる、縄文人の優れた資質を再認識する、きっかけとしていただければと思います。

 

縄文時代​​​​​​の年代​

縄文時代は、今からおよそ1万7千年前頃から始まり、西日本では3000年前頃まで、東北地方では2300年前頃まで続いたとされています。

縄文時代の末期より、主に朝鮮半島から日本列島(主に北九州、山口県周辺)へ流入してくる人々が次第に増大し、縄文時代は西日本から終了し、弥生時代へと移行していきました。

東北地方は、西日本よりもやや長く縄文時代が続きます。

 

縄文人​​​​​​の生活​

縄文時代は、実に1万4千年以上もの永きに渡って続きましたが、この間、縄文人達はいたって平和に暮らしており、人同士の大規模な殺し合いなどは、全く無かったようです。

国家という概念はなく、もちろん警察なども無かったものの、治安は非常に良かったようです。

残念なことに、弥生時代に移行していくにつれ、凄惨な殺し合いが、日本列島内で多く始まるようになります。

 

縄文時代の住居は竪穴式住居であることは、広く知られています。

下の写真が復元された竪穴式住居の外観です。

竪穴式住居は、茅葺き屋根に、煙出しがあります。

煙出しは、住居内で火を焚いて出る煙を出すところです。

下の写真が煙だしの部分です。

この竪穴式住居の茅葺き屋根や、土間にむしろを敷き詰める土座(どざ)、火を焚く炉といった縄文人の暮らしの技術は、高度経済成長が始まる少し前くらいまで、日本の住居様式としてずっと継承されてきました。

 

縄文時代の生活単位は、地域ごとに、現在の村のような集落の単位で生活していました。

多分、母系家族制であつたのでは無いかと、私は考えています。

母系家族制とは、基本的に男性が婿入りをし、家や集落を構成する血筋が、母から娘へと引き継がれていくような家族制です。

縄文時代はの女性は、家長的存在だったと、私は考えています。

女性が尊重され、ある意味敬われていたと思われるのは、出土する土偶が、圧倒的に妊娠した女性のものが多いことでも解ります。

縄文時代の母系家族制は、弥生時代に移行すると、次第に父系家族制へと移行して行きます。

これは、朝鮮半島から流入してきた人々の影響を受けた結果と考えられます。

余談になりますが、近隣の大陸系住民は大昔から現在に至るまで、男尊女卑の傾向が甚だ強い人々です。

現在の日本において、男尊女卑の傾向が西高東低となっている理由は、弥生時代からの歴史にあると、私は考えています。

 

縄文人達は、古くから物々交換で、一種の交易のようなものを日本全体(北海道から沖縄まで)で行なっていたようです。

日本列島に点在する島々にも、島伝いに行き来がありました。

例えば、現在の、東京都八丈島には、縄文時代から人が住んでいました。

日本海側では、現在の新潟から富山、島根の辺りまで、海路で行き来をしていたと思わる形跡があります。

現在でも、新潟、富山、島根の3地域は文化的な繋がりが強い傾向があります。

縄文人達の航海に関する技術は殆ど解っていないのですが、高度な航海技術があったことが推測されます。

 

日本列島全体での人口は、時代により差がありますが、おおよそ数十万人程度の規模だったようです。

 

稲作は、教科書的には弥生時代から始まったことになっていますが、発掘調査によって、縄文時代から既に水稲耕作が行われていたことが解っています。

水稲耕作が、縄文時代のいつ頃から始まったのかは不明ですが、稲作自体は、縄文時代の意外に古い時代から行われていたようです。

 

縄文人達は、畑で作物を栽培し、集落のそばの里山には、栗やクルミ、トチ、ドングリなどの木を整備し、これらの木の実を収穫し食用にしていました。

トチの実などは、水にさらしてアク抜きをして食用にしていました。水にさらしていた場所も、発掘調査で確認されています。

その他、狩猟や漁労などで、種々の獲物を捕らえていました。

海の漁で、マグロやクジラなどまで捕らえていました。

弓矢の腕前は、相当なものだったようです。

縄文人の末裔とも言える蝦夷(えみし)の、弓矢の腕前の凄さが日本書紀に記されています。

 

食物は、煮る、焼く、蒸す、干す、潰すなど、現代と変わらない調理法で調理していました。

料理のレパートリーとして、穀物や野菜、魚類の煮物や、イノシシの挽き肉に松の実やクルミを混ぜて塩で味付けしたハンバーグ、栗のクッキーなども造っていたようです。

その他、しょう油や果実酒を造るなど、食生活は意外に充実したものだったようです。

基本的には、植物食が主体であったと考えられます。

 

番犬や狩猟のパートナーとして、現在の柴犬のような犬を大事に飼っていました。

足の骨を折った犬を治療した形跡があることから、大切に犬を飼っていたことが解っています。

現在の私たのち日本人が、犬や猫を家族のように大事にする感覚は、縄文人の感性を受け継いでいると思います。

逆の視点から見ると、現在の日本犬の穏やかな性格は、縄文時代から永い時をかけて、人と犬が信頼関係を育んできた結果ではないだろうかと、私は勝手に推測しています。

弥生時代に移行すると伴に、犬を食べる習慣が暫く続いたことが分かっています。

時代の変遷と伴に、そのような習慣は、少なくとも表面的には無くなりました。

 

以上、簡潔に「縄文人の生活・文化・神様観など」の1回目として「縄文人の生活」に付いて説明しました。


次回は、「縄文人の生活・文化・神様観など」の2回目として「縄文人の文化」についてお話したいと思います。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。