自分という人間は、
わくわくするようなことをやっていくんだ。
やりたいんだ。


やらなきゃいけないことを
文字通り「片付けて」いっても、
結局、なーんにも残りはしないんだ。

だからと言って責任放棄はしないけど。


自分という人間は、
自分をひきつけるものに引っ張られ、
導かれるように、
そっちに引きずられていくんだ。


それは、
自分という人間の持って生まれたものによるものならば、
まさに導かれるようにそちらに向かっていくのだ。


「それ」に
わくわくすることができる瑞々しい感性を
自分が失わずに持ち続けることが、
すなわち、自分らしい生き方なのかもね。




新しいステージが見えてきた気がする。


自由であることを望んでるわりには、
精神をがんじがらめに縛り付けてるのは
往々にして自分自身だったりして。


いや、自分という人間が
物理的な存在であるから、
ある程度は仕方ないにしても。




新しいステージが見えてきた気がする。
わくわくするぜ。

そうさせてくれる人、モノ、時間、すべてに感謝。


そういう人、モノ、時間と出会えたのは、引き寄せたのは、
紛れもなく自分という人間なんだから、
その意味においては、自分を褒めてやるぜ。


新しいステージによじ登って
新しい景色を堪能しよかー。
自分という人間のすがたを見つめるには、
鏡をのぞき込むしか方法はない。



そして、鏡はこの世界のあらゆる場所に存在すると思う。



自分という人間の不確かさを不安に思うなら、
鏡をのぞき込めばいいよ。



だれかが自分を信用してくれないとしたら、
それは自分がその人を信用していないからだ。


だれかが自分を認めてくれないとしたら、
それは自分がその人を認めていないからだ。


だれかが自分を攻撃してくるとしたら、
それは自分がその人を攻撃しているからだ。



他者こそが自分を見つめる鏡になる。




誰かのせいにしてはいけないよ。
何かのせいにしてはいけない。
すべて、「返ってきた」こと。
ただ、それだけのこと。

そして、またそれに対して「返して」あげるのも自分だから、
そのときに、ちゃんと自分という人間を見つめていること、
これが一番大切なのかも。



だれかが自分を愛してくれないとしたら、
それは自分がその人を愛していないからだ。



何もボールを投げていないのなら、
何も返ってくるわけがないじゃないか。

「返ってきた」ものすべて自分自身だとすれば、
よくも悪くも愛おしく思えるものだ。



それが足りないなら、
足りるまで注ぎ込めばいい。




誰かのせいにしてはいけないし、
何かのせいにしてはいけない。
「返ってくる」まで、「投げ続ける」。
ただ、それだけのことだ。



誰かがいつも「鏡」になるから、
そこに映る自分を凝視する。



結局、
人は誰かに「与えた」ものだけが
自分に対しても「与えられる」という、
そういう連鎖の中で、自分は誰に何を与えるのか。

それをじっくり考えてみる。
日々、その繰り返し。



何か詩みたいやな。



のし。
一応、子どもと関わり、何かを教えるという、
いわゆる教育というものに携わって12年とちょっとくらいが経つ。


先日、私の敬愛する若人と話をしているときに、
ふと思いついて言った。


「教育っていうのは、結局、
大人と子どもがすれちがったときの『まさつ』なんじゃないの」


自分の中でかなりしっくりくる言葉だった。



教育とは、
私という大人とあなたという子どもが
こすれ合うときに生まれるものあり、
また、それでしかない。



「まさつ」というと、ネガティブな言葉に聞こえたりもするが、
それは、教育にもきっとそういう側面があるのだと想像させる。



「まさつ」は熱を生み出すのだ。
エネルギーを生み出す。

その可能性を信じるからこそ、
きっと「教育」を続けるのだろう。



「私」が「私」以上のものを生み出すことはないし、
「あなた」が「あなた」以上のものを生み出すことはないし、
自分以上にふるまうことによって生み出された「嘘」の分だけ、
その「まさつ」によってうまれるエネルギーはきっと小さくなるんだ。


本気で、
真心によって、こすれ合わなければ、
きっと生まれるエネルギーはゼロに近い。



そして、
「まさつ」は1つのモノでは生み出せない。
教育も、決して独りよがりではなく、決して1wayではなく、
2wayの物理的現象なんだ。

きっと耳をすませば音がきこえるような。



教育の本質は
「私」という大人と
「あなた」という子どもにある。

それがこすれ合うだけのことである以上、
自分にとっての教育の質を変える方法があるとすれば、
それは自分という人間の質を変える以外の方法はきっとない。



そこから逃げてはいかんし、
そこには真正面から向き合ってないとダメだ。



その音が聞こえるように、
耳をすましながら、教育に相対していたいなー。