12年経つんですね。
震災当日は確か金曜日だったと記憶してます。
そして翌日の土曜日、私は勤め先の事務所に出社し、震災関連のニュースを見ていました。
まさにその中継中に原発が爆発。
血の気が引きました。
比較的原発の近くに住んでいた両親にすぐに電話し、「住むところは何とかするから、すぐに東京に避難して!」と呼びかけたものです。
未曾有の事故でもあり、何がどうなるのかまったくわからない。
とにかく放射能はヤバい。
と、慌てたものです。
その翌々日の月曜日、両親と兄の家族(義姉とその子たち)が都内に避難してきました。
高速道路はとても通行できる状態ではありませんでしたが、常磐道が開通する前に良く利用していたという山道を通ってきたため、約半日で到着できたようです。
私は仕事が終わるなり避難先に駆けつけました。
しかし、兄がいません。
役所勤めをしている兄は「逃げるわけにいかないでしょ」と、地元に残ったとのこと。
「代わってあげたかった」と泣きそうな母と、「しゃーねーべ(仕方ないだろ)」といつも通り淡白な父。
後で聞いた話だと、当時は役所の方々やお医者さん等々、かなりの方々が避難してしまい、被災地はけっこうな人手不足に陥ったとのこと。
ご自身の身体のことやご家族のことを考えれば、職務を放り出して避難することは決して責められることではありません。しかし残って救助等に当たった方々は大いに称えたいです。
私の両親と兄家は、幸い住む場所も確保できて、色々な方々の助けもあり必要な家電や食料も「太って帰ることになりそう」というくらいに集まって、避難生活は不自由しなかったようです。
それから、甥っ子、姪っ子たち(確か当時、10歳👦、9歳👧、3歳👶)もさぞや退屈だろうと思い、私はニンテンドーDSを2台持って行きました。
特に長男君は将棋が好きなので、将棋ソフトを含むいくつかのソフトも一緒に。
避難生活は一年弱に及びましたが、長男君はその間、御徒町将棋センターに足繁く通い将棋を楽しんでいたようです。
私は当時、今の妻と付き合っていて、いつかは両親に紹介しなくては、と思っていた矢先でしたので、避難先に妻と赴き両親に紹介したものです。
母は、「本当に周りのみんなは大変なのに、私たちは住む場所もあるし、食べ物もたくさんいただいて、その上息子に良い人がいて、私たちばかりこんなに幸せでいいのか」と、また涙するのでした。
確かに我が家は恵まれていました。
それは、その時たくさんの方々に助けていただいたからです。
その中で、「では自分には何ができるのか」を考え続けたものでした。
毎年この日が来ると、そんなこと等を思い出します。