男女について、それって差別? | 加藤直の『直情モノローグ』

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エンターテイメントユニットMK-Ⅱ 加藤直のブログ

 


こんばんは。



加藤直(男)です。






今日は、男女についてと差別についての個人的な意見を書きたいと思います。



ある番組で、会社の事務員に女性しか採用しないという意見に対して「それは差別だ!」という発言がありました。



「お茶汲みや接客など、女性の方が感じが良い」という採用側の意見に対しても、ある女性が「未だに女性をそういう風に見ている会社があるのがショックです…」と涙を流していました。



たしかに、



募集要項に「女性のみ」と書いてあったのであれば、それは差別かもしれない。



ただ、男女ともに受けられる機会があったのであれば、それは男女差別にはあたらないのではないか?



結果論的な話なのであればまた違ってくるのではないか?



そういう思いがあります。






これはどういうことかと言うと、



男性と女性が面接を受けにきて、事務員としてどちらが欲しいかをフラットに考えた際にどうしたって結果的に女性に偏ってしまう。



そういったことで、事務員のほどんどが女性という実情が生まれているわけである。



しかし、これは能力を見ての判断だと思える。



仮に、男性が他の女性を凌駕する能力をアピールできればこの結果は変わってくるのではないかと思う。



「この男性に接客されるととても気分がいい!」



「ぜひこの男性にお茶汲みしてもらいたい!」



そう思う逸材なら、これは採用しない手はないはずだ。



現実的に、その職種において多くの女性に勝つことの出来る男性が圧倒的に少ないんだと思う。



あと、「未だに女性をそういう風に見てるんですか…」の意見に対しても、



「あなたの接客はとても気持ちの良いものですね」と評価されることが女性として馬鹿にされていることになるのだろうか?



それはその人の立派な能力を評価されたということなのではないだろうか?



と、私はそう考えます。






少し話は変わって、



数年前に香川県のいわゆる「◯◯大使募集」の募集要項が炎上したことがある。



理由は2つあって、



募集内容が「色白の女性」だったからである。



肌の色と、性別のダブルパンチというわけだ。



その後、募集要項は「男女」に訂正された。



この頃から、ほかの大使系の募集要項はどれも「男女」となったわけだが、実際に男性の大使はほぼいないのが現実だ。



なぜなら、大使として求められる能力においては女性の方が圧倒的に強いからでしょう。



たとえば、もしも誰もが知っている有名人の男性が地方の◯◯大使に応募してきたらまず高確率で受かるでしょうね。



それは、他の女性候補よりも圧倒的に能力が高いと判断される可能性があるからです。



そのくらいのことがない限り、フラットなオーディションでは結果的に女性が勝ち残るような職種なんでしょうね。



なので、機会は平等に設けつつも"結果的に"どちらかの性別の人しか採用されないというのはこれは差別にはあたらないと考えます。



オーディションの面接官が、



「次の方どうぞ!(男性か、まぁ落とすけどね)」



と思っている分には差別ではない。



差別意識のようなものがあるかどうかで言えばあるのかもしれないが、少なくとも差別ではないと思う。



じゃあ何が差別になるかと言うと、



「次の方どうぞ!男性ですか、女性以外は落とします」



と発言するとアウトだと思います。



これはわかりやすく差別。



たとえば、私が目の前にいる人にイラッとしたとして。



「(こいつぶん殴ってやりてぇ!)」



って思う分には何も問題ないですが、



実際に殴ったらアウトですよね。



なんか、そんな感じです。






あと、議席だとか定員枠だとかで、たびたび女性枠を一定数設けましょうみたいな話があるじゃないですか?



私はあれこそ差別だと思ってます。



機会を平等に与え、その結果どちらかに著しく偏ったとしても、それが本当に能力で判断された結果なのであればそれは差別ではないと思うんですよね。



その結果を生んでしまう流れ自体に差別意識があるというのであれば、まずはそれを変えることが重要であって、それをせずに枠を無理やり作るといった下駄を履かせるような行為はむしろ侮辱的だし差別的だと感じます。



ただ男女のみではなく、各カテゴリー別に枠を設けるという案であればありなのかなと思います。



●20代女性


●30代男性


●既婚者女性


●子供のいる男性



などなど、そういった各カテゴリーの代表者のような人を選出してそれぞれの悩みを吸い上げたり発信することはまだありなのかなと思う。



あとは、



男性と女性とで分けたところで、



それに賛成する男性もいれば反対する男性もいるわけで、これは女性も然り。



なので、いちいち分ける必要がそもそもないんじゃないかと思う。



トイレとかお風呂とか、そういうのは別だと思いますが。






理解して欲しい人というのは、なかなか他者を理解できないという側面もあったりするのかなとか色々考えます。



"理解しなければいけない"、この考えをいい意味で無視することも時には必要なのではないだろうか。



ルールで縛ることで分断を生むよりも、ルールを緩めたほうが相互理解が進む気もします。



答えがない方が考えるクセも付くだろうし、答えがないからこそ思いやりが生まれるのではなかろうか。



という個人的な考えの垂れ流しでした。



ちゃんちゃん