第二章「親の態度で子どもも変わる」 | 元校長先生のブログ

第二章「親の態度で子どもも変わる」

子どもと友だちになりたがる親―文化が伝わらない(1)

 

 小学校のスクールカウンセラーに、「親子の間がうまく行かないという相談は、たくさんあるのですか?」と尋ねてみた。その小学校は他の学校に比べて給食費未納も多く、児童虐待や貧困による子どもの不幸が気になっていたからである。


 ところが、カウンセラーの回答は意外なものだった。「親子の間がうまく行かないというケースは稀にはありますが、私がいまいちばん気になっているのは、むしろその逆とも言える現象です。」と言う。親が子どもと「お友だち感覚」になってしまっていることが懸念材料なのだそうだ。さすがカウンセラーと言うべきか、鋭いところを見ている。




元校長先生のブログ-子どもと友だちになりたがる親(1)



 

 校長退職後、我が家にさまざまな「相談」が持ち込まれるようになった。最近、中学3年生の男子生徒から、高校受験に関する相談を受けた。そのお礼を込めて父親が会いたいと言うので、話す時間をとった。どんな話の流れの中だったかは判然としないが、

「ぼくは、息子と友だちになりたいんですよ。」と、堂々と言う。とっさに小学校のスクールカウンセラーの言葉を思い出し

「親と子は友だちにはなれないんですよ。友だちであってはいけないんじゃないですか?」

と思わず答えてしまった。その父親は、「えっ?」という顔でぽかんとしている。


 こんな風な「親子の友だち化現象」はいつのころから、どんな風に始まったのだろうか。大きくは、社会や時代の流れに伴って、日本人全体の価値観の変化による『父親力』(正高信男・中央公論新社)の低下が生じたことをあげることができよう。父親の威厳は通用しなくなり、頑固オヤジ・雷オヤジもいなくなった。「地震・雷・火事・親爺」の格言のうち、一つは死語となりつつある。古い言い方をすれば、父権の失墜である。


 そうした中で、1997年(平成7年)の神戸連続殺傷事件、いわゆる「酒鬼薔薇事件」が起きた。殺害した小学生の首を中学校の正門の上に置いた、という猟奇的な行動に、世の中は衝撃を受けた。ただしここでは、子どもによる犯罪が増えたかどうか、少年犯罪が凶悪化しているかどうか、ということを問題にするわけではない。この事件の社会への影響、とりわけ子を持つ親への心理的影響について振り返ってみたいのである。


 一例をあげよう。犯人として中学生が逮捕された日、東京都内のある市では、教育委員5人による臨時教育委員会が招集されたという。そして、自分たちの市内中学校にはそんな生徒がいないかどうか、と教育長が心配して校長会幹部に尋ねたそうだ。


 この事件の被害関係者にはたいへん申し訳なく不謹慎ではあるが、私は臨時教育委員会の開催を「えっ?」と思った。このとき私は校長を務めていて「犯人は中学生ではないか?」と現場感覚による想像を教員に伝えていたので、余計にその教育委員会や教育長の言動に違和感を覚えたわけだ。現場感覚や想像力に欠けた教育委員会、と批判することもできるが、つまりは、それほどに社会に与えた衝撃は大きかった、ということでもある。


 この年から、「心の闇」という言葉がマスコミに登場し、ある種の流行語となった。教員採用試験の小論文でも、それを用いる若者が出てきた。流行の言葉というものは、時としてそれを使えば、まるで理解が深いかのような錯覚に陥ることがある。「心の闇?」それだけで片づけてくれるなよ、と言いたくなる。なんと便利な、なんと無責任な言葉だろうと私は思う。尾崎紅葉に『心の闇』という小説があるが、そこからの復活なのだろうか。必ずしも新しい言葉ではない。しかし、マスコミで広めた言葉はすぐに伝播するものだ。


その前に、1997年「三重県で中2が主婦殺害」「兵庫県で中3が先輩を撲殺」などの事件が続いていたので、余計にマスコミは飛びついたわけだ。そして翌1998年「黒磯教師刺殺事件」が中学1年生によって起こされた。教師が生徒に刺殺されるというできごとは、我々教師にも衝撃だった。


2000年には、「豊川市主婦殺人事件」「西鉄バスジャック事件」「山口母親殺人事件」等が立て続けに起きた。いずれも犯人は、高校生または16~17歳の少年であり、「キレる17歳」という言葉もメディアが使うようになる。親や教育委員会の過剰とも言える心配は、こうした背景があったからだろう。


私の勤める市内小中学校のPTA連合会でも、「子どもの心を知ろう」というテーマで、親たちの討論会などが行われるようになった。私はその種の会合で「もともと子どもの心は分からないものだという前提で、子育てや教育をした方がいいのではないか」と提言して顰蹙をかってしまった。しかし、私は今でもその発言に後悔はない。もちろん「ふ~ん、そうなんだ」「なるほどそういうことだったのか」と相槌をうつことは大事だが、さも理解しているかのように「君の気持ちはよく分かっているよ」などと甘い言葉をささやきたくはない。「子どもの心は分かりにくい」という前提で子どもと接した方がよいと信じている。


 

つまり「子どもの心を知ろう」とテーマに掲げるこのころから、「親子の友だち化現象」が急加速したのではないか、と思われるのである。友だち感覚で子どもと接していれば、子どもは本心を語ってくれるのではないか、親たちはそんな思考に傾く。残念なことに、教師の中にもそうした考えに取りつかれる者が出てくる。「子どもからニックネームで呼ばれるのは嬉しい」と言う教員もいる。先生をあだ名で呼ばせることを歓迎しているのだ。何か大事なところで履き違えがある。「○○先生」ときちんと呼ばせるのは、教育の一環であるはずだ。


「子どもの心を知ろう」という思いは、イコール子どもと友だちになること、という風に矮小化されていくが、それでは友だちとして親子はどんな会話をしているのかと問えば、たかだかお笑いタレントや歌手などの芸能情報にすぎない。果たしてそれでいいのだろうか。子どもの目線で考える、それは否定しない。しかし、子どもに「おもねる」親も(ときには教師も)増えているのは確かである。河上亮一氏は『学校崩壊』(草思社)の中で、それを「お子様教」と呼んでいる。言い得て妙である。






元校長先生のブログ-子どもと友だちになりたがる親(1)