昨日の記事で出てきた「急がば回れ」

 

これは滋賀県の琵琶湖の南端にかかる

瀬田の唐橋がその発祥と言われます。

 

東国から京都への最短ルートは、

琵琶湖南端の東岸にある草津から

舟で西岸の大津へと向かうルートです。

 

それを示すように現在では

そこに近江大橋が掛かっています。

 

しかし、

比叡山からの山おろしの風が強く、

いつでも舟で渡れる訳ではなく、

それならば、さらに南下し、

遠回りながら

瀬田の唐橋を渡った方が

早いとされます。

 

ここから、

急ぎ京と東国を行き来するなら、

南へ回って瀬田の唐橋を渡れ。

「急がば回れ」

となっていきました。

 

 

この瀬田の唐橋、

日本の歴史上の非常に大きな事件の

ターニングポイントになりました。

 

それは本能寺の変。

 

1582年旧暦6月2日、

明智光秀は

「敵は本能寺にあり」

の有名な言葉と共に

織田信長が居る京都本能寺を攻めました。

 

本能寺で織田信長を。

二条城で嫡男信忠を討った光秀は

本拠地であった

滋賀県の坂本城に入ります。

 

6月5日に織田家の本拠地であった

安土城を攻めて陥落させ、

6月9日には京に入り参内。

 

6月13日に山崎の戦で

羽柴秀吉軍に敗れ敗死します。

 

 

謀反軍が

「謀反」という

イレギュラーな状況から、

「新政権」という

安定的な状況を作り出すには、

スピード感を持って周囲を制圧し、

状況を落ち着ける必要があり、

急がば回れの瀬田の唐橋を

早々に渡る必要がありました。

 

しかし光秀は本能寺の変の後、

織田家の本拠地安土城を攻めるまで

3日間も坂本城で過ごしています。

 

この3日のロスは、

結果として光秀には

文字通り致命的でした。

 

羽柴秀吉の

「中国大返し」と言われる行軍は、

実は特段早い訳ではなく、

通常の行軍速度で備中から畿内に

帰って来ただけでした。

 

それでも光秀軍が

準備不足で山崎の戦に挑み敗れたのは、

この3日間の

時間的ロスが影響しました。

 

 

何故即座に安土城を攻めなかったのか。

 

 

それは、

瀬田の唐橋周辺を代々領地とし、

信長にもそのまま本領安堵され、

当時瀬田の唐橋を管理していた

山岡景隆が、

明智軍の安土侵攻を食い止めるべく

瀬田の唐橋を落としたため

渡れませんでした。

 

その結果、

明智軍は3日かけて橋をかけ、

6月5日に

安土に攻め入る事となりました。

 

明智光秀が、

 

本能寺・二条城襲撃から

安土城攻略、

周辺諸国平定

 

という順番で

プランを立てていたとすれば、

100人程しか

守る兵がいない信長相手に

1万3千もの兵力の

全てを投入したのは悪手でした。

 

せめて3千程の兵を

瀬田の唐橋確保に差し向けていれば、

歴史は変わったかもしれません。

 

 

瀬田の唐橋を落とし、

光秀の野望を砕いた山岡氏は、

織田家への忠節から

賤ヶ岳の戦いでは

織田家を軽んじる秀吉に付かず、

柴田勝家方で戦います。

 

敗れて降伏しますが、

瀬田の唐橋を落とした功績からか

領土は没収されますが、

命だけは許されます。

 

その後、

弟、七男と家督が継承される中で、

江戸時代は9000石の旗本となり、

隠密活動を行う

甲賀組のトップとなります。

 

 

瀬田の唐橋を

急いで渡れなかった

明智光秀は時を失い、

瀬田の唐橋を

渡らせなかった山岡家は

遠回りしつつも

江戸時代を生き抜く家となりました。

 

 

 

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