「二十四将」と言うと、

武田二十四将が有名ですが、

徳川家でも同様のカテゴリーがあり、

「徳川四天王」

彼らも含まれる「徳川十六神将」

その16人も含まれる

「徳川二十四将」です。

 

戦国時代に徳川家康を支え、

天下統一に貢献した

武将たちが名を連ねますが、

幕藩体制確立後に、

将軍を支えた幕府中枢である

老中、大老の家柄と

同じかと言えば少々異なります。

 

ではまず二十四将を見てみます。

 

酒井忠次(1)

本多忠勝(2)

榊原康政(1)

井伊直政(6)(以上徳川四天王)

 

米津常春

高木清秀

内藤正成

大久保忠世(4)

大久保忠佐

蜂谷貞次

鳥居元忠(1)

鳥居忠広

渡辺守綱

平岩親吉

服部正成

松平康忠(以上徳川十六神将)

 

大須賀康高

板倉勝重

戸田忠次(3)

水野忠重

渥美勝吉

安藤直次(1)

酒井重忠(5)

松平定勝(2)

本多俊正

 

カッコ内は本人及び子孫が

老中、大老になった数となります。

 

この中で本人が老中になったのは

榊原康政安藤直次の2人のみで、

共に幕末まで続く家柄ながら

彼らが最初で最後の老中となります。

 

子が大老、老中になったのは、

井伊直政の子直孝、

酒井重忠の子忠世が大老、

大久保忠世の子忠隣が

老中になりました。

 

では、

大老、老中をどんな家系の家が

継いでいったのかを見ていきます。

 

大老と言えば

井伊直弼が有名だと思いますが、

井伊直政から続く彦根藩の家柄であり、

この家からは6人の大老を出しています。

 

酒井重忠の家系からは

大老3人、老中2人の5人を出しています。

 

この酒井重忠の弟の家系からも

大老1人、老中3人の4人を出しています。

 

一方、別系譜の酒井家、

四天王酒井忠次の家系は

老中1人に留まります。

 

本多忠勝の家系からは

7代目、14代目の2人が

老中となっています。

 

「信長の野望」など

戦国ゲームやドラマでは

徳川家臣団の中軸となる四天王ですが、

江戸期に入ると

酒井、本多、榊原家合わせて4老中であり、

大老を出した井伊家の6人、

酒井重忠系の9人と

大きな差が生じています。

 

 

大久保忠世の家系は子の

忠隣を含め4名の老中を出しています。

 

鳥居元忠の家系からは1人。

 

戸田忠次の家系からは

3代目、4代目、10代目と3人、

他に戸田一族としては

もう1人老中を輩出しています。

 

老中と言えば「水野忠邦」を

思い浮かべる人も多いと思いますが、

徳川二十四将の

水野忠重の直系の家系ではなく、

兄の家系の藩主で、

この忠元系水野家からは

5代、8代、11代忠邦と

3人の老中を輩出しています。

 

また、忠重直系ではなく、

忠重4男の家系も

7万石信濃松本藩主になりながら

6代藩主が改易され

一旦旗本に落とされますが、

8代目が大名に返り咲き老中に、

9代目、14代目と3名の老中を輩出する

復権を遂げています。

 

松平定勝は「久松松平家」という

家康の異父弟の家系で、

定勝の嫡男の家系は

伊予松山藩の家となり、

15代目当主が老中になり、

三男の家系は伊勢桑名藩の家となり、

9代藩主が松平定信となります。

 

この二十四将直系では無い家系で

老中をよく出す家系としては、

合計6名の老中を出した「水野家」、

4名を出した酒井重忠の弟忠利の家系、

老中を4人排出し、

幕末の老中安藤信正を出した

安藤直次の弟重信の家系があります。

 

 

また、

二十四将の直系、傍流でもなく

老中を多く輩出した家として

阿部家があります。

 

歴史に詳しい人なら

「ペリー来航時の老中」として

阿部正弘を知っているでしょう。

 

家康の祖父松平清康を殺害し、

家康が今川家に人質に出るまで

松平家を衰退させるきっかけを作った

阿部正豊との関連性は不明ながら、

同じ阿部家で

「正」の字を使っていますので、

それ程遠い親類では無いのでしょう。

 

そんな阿部氏の阿部正勝は

家康と共に今川家に人質に行き、

その後も家康に付き従います。

 

長男の福山藩系初代阿部正次が

老中になったのをはじめ、

2代、7代、8代、9代、11代阿部正弘と

6人が老中となり、

次男系の忍藩系2代阿部忠秋以降、

3代、4代、5代、6代、16代と

5代連続を含む6人が老中となり、

阿部家からは

12人の老中を輩出しています。

 

それぞれの家系単独でも

井伊家と同数ですし、

一族としては最多の老中数となります。

 

先に出た家康の祖父を殺害した阿部正豊

 

その父は阿部定吉と言いますが、

息子が主君を殺害した事から

自身も自害しようとしますが、

家康の父松平広忠は処断せず

そのまま家臣として起用します。

 

その定吉死後に生まれた子が井上清秀。

その子、井上正就が1615年に大名となり、

井上家は大名初代正就以降、

4代、6代、9代、10代と

5人の老中を出しています。

 

次に稲葉家。

 

戦国史の中では美濃三人衆

稲葉一鉄が有名です。

 

斎藤道三を支えますが、

子の義龍側に付いて道三を討ち、

織田信長に寝返る事で

斎藤家を没落させる、

戦国中期の

キャスティングボードを握った

武将の一人でした。

 

そんな稲葉一鉄の弟の

孫娘が春日局です。

 

春日局は稲葉家の遠い親戚

稲葉正成に嫁ぎます。

 

小早川秀秋に仕え、

関ケ原では徳川方への寝返りに貢献、

その後小早川家が断絶すると

浪人となります。

 

しかし、春日局が出世する中で

一鉄系ではない

正成系稲葉家は大出世します。

 

正成が大名になると共に、

2代目である子の正勝が老中になり、

3代、4代、16代、

もう1人一族から老中を出し、

合計5人の老中を出しています。

 

次は堀田家。

 

堀田家は織田家に仕える目立たぬ武士で、

一時期小早川秀秋に仕え、

関ケ原の戦いの後、

500石で徳川家に仕えました。

 

ただ、正室が

稲葉家の娘で春日局の義理の娘であり、

子の堀田正盛

春日局の義理の孫となります。

 

春日局の権力が増す事で

堀田家も取り立てられ、

堀田正盛が老中となり、

その子は大老、その後2人が老中となり、

4人の大老、老中を出しています。

 

次は東京のお洒落タウン青山に

その名を残す青山家

 

戦国武将としては

全く目立たぬ存在でしたが、

直系、傍流含めて

6人の老中を出しています。

 

土井家は、

江戸初期の大老土井利勝が有名です。

 

元は水野家の生まれですが、

土井氏に養子に入りました。

 

しかし、戦国期には目立たぬ存在で、

石高も関ケ原後に

ようやく1万石に達する家でした。

 

しかし、土井利勝の大老をはじめ、

一族から4人の老中を出しています。

 

戦国期から松平家に仕えるものの

3代家光時代にようやく大名になった

久世家が4人。

 

三河の名門で

1590年の関東入府時から大名格ながら

二十四将では無い牧野家からは

本家長岡藩系、分家三河吉田藩系

合わせて4人が老中になっています。

 

元は北条家臣で

関東入府以降徳川家臣となり

関ケ原後に大名となった

秋元家からは2人が老中になります。

 

武田二十四将

土屋昌次は長篠の戦で戦死し、

その弟土屋昌恒が家を継ぎます。

 

しかし、武田家滅亡時に

勝頼に最後まで従い、

勝頼自刃の為の時間を稼ぐ為の

大奮戦をした後、自身も自害します。

 

その子が1602年に大名となり、

昌恒の孫となる土屋数直が老中になり、

この土屋家からは2人が老中になります。

 

このように北条家臣や武田家臣からも

老中が出ていますし、

真田家、諏訪家、立花家などからも

老中が出たりもしています。

 

 

江戸時代を通して、

大老12人、

老中142人(後に大老になった5人を除く)

合計154人が居ますが、

二十四将直系の家系からは

26人しか就任しておらず、

戦国時代に活躍した

主に武闘派の武将たちと、

江戸時代に重用された

テクノクラートの人材が

異なる事が分かります。

 

あんなに戦場で頑張ったのに

武闘派を軽んじてる!!

と四天王榊原康政が晩年

家康に憤慨したエピソードがありますが、

まさにそれを裏付けるような

老中のデータとなります。

 

 

 

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