日本史を使った笑いの小ネタに

「伊達政宗」を

「いたち」と呼ぶものがあります。

 

「いたちじゃねぇよ、だてだよ!!」

 

のツッコみが返って来る

定番ネタですが、

この「いたち」がもし

正しかったらどうします??

 

 

歴史家によって真偽論争はありますが、

伊達氏初代とされるのは

源頼朝が奥州藤原氏を討つ為に

遠征した奥州合戦で活躍した

「常陸入道念西」という鎌倉御家人。

 

彼が頼朝から

福島県伊達郡を与えられる事で

伊達朝宗」と改称し、

ここから福島県伊達郡を本拠とする

伊達家が興り、

15代晴宗の時に山形県米沢に本拠を移し、

17代政宗の時に仙台藩主となり、

宮城の伊達家となります。

 

 

「伊達=だて」の論拠は

「伊達郡」という地名となります。

 

では、

その地名が本当に「だて」なのか、

という歴史ミステリーです。

 

 

福島県信夫郡が10世紀に分割され

伊達郡」が誕生しますが、

兵庫県にある

射楯兵主神社」を信仰する人々が移住し

伊達神社」を奉じ、

伊達郡の名前となります。

 

兵庫の「射楯」は

「いたて」と読み、

伊達神社」は現在宮城県に移り

「いだて」と読みます。

 

さ~て、複雑になってきました。

 

 

10世紀以降もこの伊達の地名を

「いたて」「いたち」と表記もされ、

南北朝時代の記録には

伊達家の当主を指して

「いたて」と残り、

室町時代には

「たて」「たって」などと記録が残り、

「だて」が主流ではありませんでした。

 

より分かりやすいのがローマ字表記。

 

政宗が派遣した

支倉常長の慶長遣欧使節団に対し、

ローマ側の表記は「IDATE」でした。

 

正式に「いだて」を用いています。

 

そして、

江戸時代を通じて「伊達家」は正式に

「いだて」を読みとしています。

 

伊達家を全国区にした

立役者の17代目が

「だて政宗」に正式になったのは、

明治維新以降なんですよね。

 

だからこそ、

伊達家の興り以前からある

宮城県の神社は現在でも

「伊達神社=いだて」ですし、

創建が平安時代の和歌山県の

「伊達神社」は「いたて」となります。

 

ただ、

明治になって開拓された

北海道「伊達市=だて」の

伊達神社は「だて」ですから、

同じ「伊達」で読みが異なり、

かなりややこしいです(笑)

 

 

 

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