福岡藩黒田家には

代々の家臣も居ましたが、

猛将後藤又兵衛は、

黒田官兵衛の子

長政との折り合いが悪く、

大坂の陣の折には大阪城に入城し、

真田幸村と共に

武将としてはこれ以上ないくらい

武名を残して討ち死にしました。

 

また、本日の主役栗山家もまた

黒田家股肱の家臣です。

 

 

栗山善助は

黒田官兵衛第一の家臣として

最も信頼を置かれる存在であり、

黒田家が大きくなってからは

家中の序列第一位の家柄となり、

子息と合わせて2万石弱という

大名並みの石高を持つに至ります。

 

そんな栗山善助は、

「一番嬉しかった事」

として官兵衛に仕えて3年目に

「足軽を1人もらったこと」

としています。

 

そして、

「2番目に嬉しかった感激した事」

として、19歳で

「83石を貰ったこと」

としています。

 

その後も

黒田家で活躍をつづけた善助は、

関ケ原の合戦後には

「1万5千石」を新たに貰います。

 

19歳の時の石高の

150倍以上の石高ですが、

喜びが150倍かと言えば、

 

「恩とも思わず、

かたじけないとも思わなかった」

 

と正直に言い残します。

 

人は付け上がるし、

思い上がるから、

初心を忘れるな、

とのメッセージなのですが、

これは人の「喜び」を

端的に示していますよね。

 

無から有が生じた時の

喜びは大きいものの、

それ以降、

それが当たり前になれば、

貰っても喜びは低減し、

十分に持つ身となれば、

後はいくら積まれても

喜びは低減していく。

 

感謝、謙虚さを人が見失い、

足元をすくわれるきっかけは、

こんな時にこそ起こります。

 

 

さて、

福岡藩の大老は

昨日の記事に登場した、

元は荒木村重の家臣の次男であった

黒田一成の家系が代々継ぎますので、

栗山家は??となりますよね。

 

善助の子大膳は、

黒田長政が廃嫡しようとした

長男の忠之を守り、

無事に2代藩主にさせますが、

長政の危惧通り

忠之は重臣たちとの間に軋轢を生み、

お家騒動に発展してしまいます。

 

そして、

そのお家騒動の中心人物が、

栗山大膳。

 

更生させようと必死になり過ぎて、

逆に忠之から遠ざけられ、

代わりに側近たちと共に

放蕩の限りを尽くすようになり、

大膳が藩を、

藩が大膳を

訴え合うような騒動に発展します。

 

結局、関ケ原の合戦における

黒田家の功績もあり、

福岡藩はそのままに

栗山家が

盛岡藩お預けという形で決着します。

 

流罪となった武将や大名は

江戸時代に多くいますが、

栗山家の場合は流罪とは言え、

盛岡藩南部家は厚くこれをもてなし、

子孫は盛岡藩士200石として残ります。

 

これは、黒田官兵衛が

伊丹城で監禁された折に、

黒田一成の父、

荒木家牢番加藤重徳に良くされた事で、

黒田一成を通じてその恩に報いた事、

栗山善助が嬉しかった事として

足軽1人や83石と

語ったこととも符合します。

 

栗山家には他にも仕官の道は

あったと思われますが、

全てを失った栗山家に対して

過分とも言える待遇を用意して

もてなした盛岡藩に対して、

子孫代々その恩を

返していったのでしょう。

 

この為、

黒田官兵衛が着用していた兜は、

栗山善助が官兵衛からもらい受け、

それを栗山家が代々継いでいた為、

福岡から遠く離れた盛岡の地の

文化館で展示されています。

 

 

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