天気と安全保障は

密接に関わっています。

 

第二次世界大戦末期、

日本の新聞から天気予報が消えましたが、

それは日本を空爆する米軍機が

雲があると飛来出来ないからであり、

空爆に適した場所を

わざわざ日本から示す事の無いように、

天気予報が消えました。

 

軍事作戦に影響を及ぼす天気、

だからこそ、

時に歴史をも変える影響力を持ちます。

 

 

例えば、

日露戦争時の日本海海戦、

 

「本日天気晴朗なれども浪高し」

 

とは連合艦隊出撃時に

大本営に向けて打電した報告の末尾に

第一艦隊参謀秋山真之が

加筆した一文です。

 

司馬遼太郎に、

この一文によって、

作戦用の文章が文学になった、

と言わせる名文とされますが、

実際には出撃に向けた

感傷的な文章では無く、

連合艦隊が用意していた

艦隊決戦前の

小型の水雷艇による魚雷攻撃が

日本海の荒波によって

出来なくなった事を示唆します。

 

「浪高し」の状況が無ければ、

日本海海戦は

戦艦同士の主砲の撃ち合いという

派手な海戦では無く、

バルチック艦隊に対する

小型艇による魚雷攻撃から

始まっていました。

 

 

1560年6月12日13時、

雹が混じる程の冷たい豪雨が

愛知県知多郡に降ります。

 

この時、

織田信長率いる2千の兵が

今川軍主力5千程に近付きます。

 

そもそも3万以上の

兵力を動員した今川軍ですが、

今川義元本陣は5千程。

 

しかも豪雨に

視界も音も遮られた織田軍は

完全なる奇襲をかける事で、

今川義元の首を上げる

勝利を掴む事になります。

 

これが晴天続きだったなら、

恐らく織田軍は敗退し、

歴史は変わっていたでしょう。

 

 

また、

940年3月25日、

北関東にからっ風が吹く季節、

その北風を受けて茨城県で

戦局を有利に進めていた平将門ですが、

突然南風に変化。

 

南風に乗った矢に額を射貫かれ

平将門の乱は終わります。

 

3月のからっ風を味方に付け、

そして突然の南風でその野望が潰えた、

日本の歴史を変えた

風向きの変化でした。

 

 

そして10月と言えば、

川中島の戦いです。

 

1561年10月27日深夜、

武田・上杉両軍が睨み合う

膠着状態を打破しようと、

武田軍が動き、

1万2千の兵を海津城から尾根伝いに

謙信が布陣する妻女山に移動させます。

 

しかし、

この武田軍の動きを察知した

上杉軍1万3千は

音一つ立てずに山を下り、

川中島へと移動します。

 

武田信玄率いる本隊8千も

別動隊によって急襲され、

慌てふためいて

山を下りて来るのを見越して

川中島に移動、

決戦の10月28日へと時は進みます。

 

10月の長野県北部。

 

秋の盆地特有の

濃霧が出る事で有名です。

 

山から見下ろせば雲海が綺麗ですが、

中に入ると数十メートル先も

見えなくなります。

 

本来兵力で勝っていた武田軍ですが、

分散したため8千となった本隊に対し、

濃霧の向こうから

1万3千の上杉軍が急襲、

歴史に残る大激闘となります。

 

霧が無ければ上杉軍が

ただ山を下りただけとなりますが、

濃霧によって完全な奇襲となり、

信玄、謙信が一騎打ちをしたと伝わる

日本史上有数の大合戦となりした。

 

 

歴史が動いたその時、

天気のいたずらが、

実は関わっていたりします。

 

 

■ 講演 ■ 
「偏差値30の東大生」
何故偏差値30のLAの不良は
東大大学院まで進めたのか

講演料:50,000円+交通費
90分を超える場合は要相談

 

講演お問い合わせはこちらから

 

大人の社会科授業
授業内容:

①「勉強の仕方」

②「安全保障論」

③「プロパガンダと広告」

④「経済学って面白い」


費用:お一人 5,000円
(飲食代別)

お申し込み方法など
詳しくはこちらの記事をご覧ください

 

ポストお問合せはこちらからポスト

 

取材、出演、執筆依頼 コンサルティング相談など

 

ペタしてね