日本の戦国時代でも、世界史でも、

大国に挟まれた狭間の土地の領主程、

辛いものはありません。

 

双方から狙われ、

どちらに付くのか選択を迫られ、

時には双方に上納金を渡し、

選択を間違えば滅亡する。

 

戦国時代なら

武田と上杉に挟まれた北信濃、

織田と毛利に挟まれた兵庫県

あたりなどがそうなりますが、

今回の記事は

織田と武田に挟まれた

東美濃が舞台です。

 

現在の大河ドラマ『麒麟がくる』の

明智光秀の出身地付近で、

明智氏と同じ東美濃の国衆に

「遠山氏」が居ます。

 

 

元は加藤景廉(かげかど)という

人物に始まります。

 

平安末期、

剛勇無双と言われ

保元の乱では大暴れした

源為朝(鎌倉幕府を興す頼朝の叔父)、

を討伐した事で名を上げた加藤景廉。

 

源平合戦では源頼朝の元に参じ、

幕府成立後も源義経を討つ

奥州合戦などでも活躍し、

東美濃遠山荘を与えられます。

 

 

①遠山荘を与えられた

②「景」の文字が使われた人物

 

 

を押さえておいて下さい。

 

遠山の地名から、

長男は

遠山景朝(かげとも)と名乗ります。

 

加藤景廉

     |

遠山景朝   加藤景長   加藤景義

(遠山氏)      |               |

               (13代略)      (12代略)

               加藤嘉明      加藤光泰

 

他の兄弟はそれぞれの地で

加藤の姓で代を重ね、

江戸時代にはそれぞれの子孫が

加藤光泰系

伊予大洲藩6万石で幕末まで続き、

加藤嘉明系

近江水口藩2万5千石で

幕末まで続きます。

 

 

さて、

本題は東美濃の遠山氏です。

 

この地域は

甲斐・信濃と勢力を伸ばした武田氏と、

尾張・美濃から畿内へと

勢力を伸ばす織田氏の狭間に位置し、

鎌倉時代、室町時代を経て

数家に分家していた遠山氏は

武田氏に付く家、

織田家に付く家と分かれます。

 

本家岩村遠山氏は織田家に付き、

信長の子を養子に迎えるも

武田氏の攻略で落城し、

武田家臣となり、

信長の子は甲斐で育てられるという

運命を辿りますが、

その岩村城は信長によって

再度落城し本家は滅亡します。

 

なお、先程の信長の子は

織田家に戻りますが、

本能寺の変で

兄信忠と共に二条城で討ち死にします。

 

織田家に付いたのに滅びるのも

狭間の辛さ。

 

しかし、

近隣の分家苗木遠山氏は

織田家から徳川家と渡り歩き、

関ケ原の合戦の時に

旧領遠山を取り戻し、

苗木1万石の大名として

幕末まで続きます。

 

また、明知遠山氏も

遠山利景(としかげ)が

織田家から徳川家と渡り歩き、

美濃で6500石の

大身旗本となります。

 

 

さて、

「旗本」で「遠山」で「景」が付く。

 

時代劇ファンなら

すぐに分かると思います。

 

そう、遠山の金さんこと遠山景元は

この明知遠山家の分家筋の人物です。

 

明知遠山本家

12代目の人物は遠山景高。

 

多くの人は知らないと思いますが、

歴史的狭間で苦労します。

 

1853年、浦賀奉行でした。

 

つまり、

ペリー来航時の浦賀奉行なんです。

 

 

そして、分家遠山家に

養子で入った遠山景晋(かげくに)は

蝦夷地に派遣される事3回、

ロシア船来航時に

ロシア使節レザノフと会談、

長崎奉行も務めるなど

1800年代初頭の

幕府の外交政策の中心的事務方として、

歴史的狭間で苦労します。

 

この景晋の子が遠山の金さん、

遠山景元(かげもと)となります。

 

そして金さんこと景元は

徳川家譜代の

水野家(老中水野忠邦)、鳥居家の

町民の生活を脅かす

天保の改革コンビと、

町人との狭間で苦労します。

 

とかく「狭間」で苦労する

遠山家なんですねぇ

 

 

 

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