LAの高校時代の

英語の授業(ようは国語)において、

「友達の数と親友の数の違い」

というエッセーの課題がありました。

 

友達、親友両方の数を明記させる

エッセーの学校側の意図としては、

友達より親友の方が数が少ないよ、

親友を大切に、

というもののようでしたが、

私は両方の数字を「0」で記入して

エッセーを書いていきました。

 

 

日本に居た幼少期の頃から

「友達100人出来るかな」

というフレーズには

違和感を覚え続けていました。

 

悪ガキとして「友人」ら7、8人で

毎日近所や公園で遊びまわり、

LAに渡ってからも

ギャングやマフィアの「友人」らと

毎晩遊びまわっていましたので、

ポツンと過ごしてきた

訳ではありませんが、

「友達」ってなんだろう??

とはよく疑問に思っていました。

 

 

幼少期から

何度か引っ越しをする中で、

それまで日々

一緒に遊んでいた「友人」も、

会う「機会」が失われると、

途端に疎遠となり、

数年後には残念ながら多くの

「友人」の名前も忘れてしまいます。

 

「日々会う機会があり目にする人たち」

「友達」

の間の線引きが分からず、

私の数字は「0」となりました。

 

その英語の授業でも、ギャング連中と

楽しそうに話をしているのを

先生も見ていますので、

私のエッセーを読んで

戸惑っていましたが(笑)

 

 

「友達」の定義が

 

「よく会う人」なら

学校に入学するだけで

100人でも出来るでしょう。

 

「定期的に遊ぶ仲間」なら

10人前後は出来るでしょう。

 

「利害は無くとも

将来に渡って付き合いが続き、

相手の困難な時に

最優先で駆けつける相手」なら

人生で

一人見付かるだけでも御の字で、

片手以下で十分幸せでは

無いでしょうか。

 

 

それを、定義も曖昧なまま、

「友達100人」と

子供たちに植え付け、

大人たちも

「お友達出来た??」

なんて安易に聞くものだから、

「友達」らしき人間関係を

構築するために個を封印して

集団に溶け込んだ振りをしてみたり、

皆と同じモノを好きだと言ってみたり、

とにかく「一緒」を最優先する

人間関係に心と体を

子供の頃から砕くことになります。

 

 

私は付き合いはフランクにするものの、

「友達」を欲したことは

ありませんでしたので、

予定が合わなければ行かない、

簡単に連絡を付けられたく無いので

連絡を取り合いやすい

ポケベル、LINEなどは

手を出したことが無く、

携帯もかなり長い間

持つことを拒否しましたし、

飲み会などでも

場に居る価値が無くなるくらい

ダラけて来たらパッと帰っちゃいます。

 

恋愛関係でも10代の頃から

「友達以上恋人未満」を

心地良く過ごしてきましたし、

固定の肩書が

縛られているようで嫌なんですよね

 

定義にも依りますが、

人生で1人や2人しか

見つからないであろう「友達」に

固執するからこそ、

一人が寂しかったり、

仲間外れを恐れたりし、

「友達」を見付ける事、

「恋人」を作る事に熱心となり過ぎ、

ストレスを感じたり

するのではないでしょうか。

 

自分が人間関係における

ステータス、肩書にこだわるからこそ、

人間関係に疲れたり、

泣いたりします。

 

目の前の人間関係の

99%は一過性のもの、

と思ってしまうと、

一人の時間が

大いに充実してきたりします(笑)

 

 

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