記録的な大雪によって

大変な被害が出ています。


そのような中で、

自衛隊は懸命な救助及び

除雪作業を行っています。


何時間車や電車が動かなかった

などの報道もあり、

目に見えるスピード解決

では無いことに対する不信も

あるかも知れませんが、

自衛隊は早くから動き出していました。



県全体が

雪に閉ざされてしまった山梨県では、

土曜日の午前11時過ぎに

山梨県知事から第一師団に派遣要請があり、

午後1時前からは部隊が順次派遣されます。


群馬県も土曜日午後3時前に

第12旅団へ派遣要請がありますが、

それより以前の午後1時には

第12旅団は自主派遣を決定しています。



長野県も土曜日、

静岡県、東京都、宮城県などは日曜日に

派遣要請をし、各地の自衛隊が

除雪や救助に派遣されました。



さて、この自衛隊の災害派遣ですが、

その「隠れた」第一例目は

1951年の京都福知山の水害です。


この時は現場部隊が

独自判断で災害派遣をし、

地元住民に感謝はされたのですが、

シビリアンコントロールを重視する

後の自民党の大幹事長後藤田氏は

現場指揮官を越権行為として処分します。


この判断は難しい所ですね。


そのため、

この災害派遣は記録されませんでした。


記録上の第一例目は

同年の山口県の台風被害ですが、

この時は先の越権行為処分の恐怖があり、

知事の派遣要請を現場が却下し、

米軍が先に救助を行う事態となります。


その後吉田総理がトップダウンで派遣を指示し、

第一例目となります。

こうしてルール作りの試行錯誤が始まり、

原則知事の要請に基づく

派遣を行うものとなります。


そして、現場の判断の重要性と、

全体的な責任の所在の

バランスが上手く取れた

現在のものへと成熟されます。



現在では要請が無い場合における、

現場部隊の自主的な派遣も

例外的に認められていますが、

今回の大雪での対応を見ると、

群馬県の第12旅団は

知事からの要請以前に、

偵察部隊を派遣し

状況の把握のための活動を行わせています。


小さな現場の越権行為の繰り返しが、

満州事変のような大きな越権行為を

生む素地になることは事実であり、

時代的にそれを良く知る後藤田氏が

1951年の段階で独自判断の災害派遣を

処分したのは当然の判断であったと思います。


しかし、現場指揮官として、

目の前の災害に対して

ただ命を待つのも辛い判断となります。


その意味では、

現場部隊の自主的な判断も

場合によっては可能とする

現在の災害派遣の枠組みは、

それだけ自衛隊の

シビリアンコントロールが機能しており、

信頼を置くことが出来ると言うことだと思います。



なお、現在自衛隊は15の師団・旅団を持ち、

各地方に配備していますが、

有事に前線になる危険性が低い

内陸の地域にも部隊があるのは、

実は災害派遣のために現在の形となったから。


全ての都道府県に自衛隊の基地があり、

部隊が配備されていますので、

災害が起きた時に地元の部隊が

即座に対応出来るんです。



時々、自衛隊の基地出ていけ~、

などと言う人がいますが、

基地は国のためと共に、

地域の為に作られているんです。