那珂湊の反射炉❗️
徳川斉昭公により、安政2年(1855)海防の砲台を藩内各所に築くために、大砲鋳造を目的に建造した日本で4番目の反射炉です。
南部藩士の大島高任らを反射炉建設の技術者として採用し、小沙や笠間の土を配合した耐火煉瓦を作り出すことに成功。苦心の末に二基の反射炉を完成させました。
しかし、当初は良質の鉄が無く、大砲鋳造は強度に問題を残したため、斉昭公は大島の故郷南部の釜石(岩手県釜石市)での洋式高炉を建設を命じ、南部鉄器で有名な良質の「柔鉄」供給を行うこととなりました。
その高炉が一昨年、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として世界遺産になった『橋野高炉(跡地)』です。
那珂湊の反射炉の関連事業であった橋野高炉跡地が世界遺産となったのに、事業本体の那珂湊の反射炉は県の史跡止まり(>_<)
茨城県の見解は「那珂湊の反射炉は、元治元年(1864)の元治甲子の乱により破壊され、昭和に再建された物だから遺産価値が高くない」とのこと(>_<)(>_<)
再建されたものがダメと言うなら、世界遺産の首里城は❓金閣寺は❓
破壊された那珂湊反射炉は、昭和初期に建造された場所に残されていた耐火煉瓦を取り入れながら、図面に基づき忠実に復元されております。
そして、大島らが苦心の末に成功した、高度な『耐火煉瓦』の開発が、わが国の近代製鉄史上やセラミックス工業史上に重要な意義があります。
那珂湊反射炉は、近世日本の産業遺産として、その存在意義を十分に主張しうるものであり、郷土の想いやその郷土教育がしっかりしていれば、一昨年に世界遺産になり得たものと考えます!
郷土の史跡や伝統文化をしっかり自覚し、県民がしっかり発信して行きましょう❗️❗️