5月29日、F高校のSSH(スーパー・サイエンス・ハイスクール)授業公開に行ってきた。もっともSSHという言葉は使わず、学校設定科目の「SS探究」の一貫として「課題発見力養成講座」の授業公開という位置づけである。1ヶ月間毎週水曜日の授業公開。「いつでも都合の良いときに来てください」という姿勢に好感が持てる。PTA総会での授業参観にも抵抗があった頃を考えれば隔世の感がある。
SSHが初めて制度化されようとしていた平成13年。校長に呼ばれ、SSH指定校に手をあげることについて意見を求められた。当時のF高校は、2年後の男女共学化を控え、古い体質から生まれ変わろうとしていた時期だった。改革を推進する立場だった私は、「無理だと思います」と答えた。消極的な意味ではなく、変わろうとしていくアプローチには不要と感じたのだ。同様に問われた1学年主任が同じ答えをしたと後に聞いた。感じていたことは同じだったのだ。F高校が断ったことにより、既に男女共学となっていたA高校に白羽の矢が立ち、県内初のSSH指定校となった。A高校は県内最古の高等学校という伝統と人材を育てる校風があり、当時の校長の人間性も相まって、初めてのSSH指定校としては最適だと思った。しかし、時間が経つにつれ、SSH事業が学校全体の取り組みとならず、1人の教員の負担が大きくなっていることがわかってきた。5年間の指定が終わる頃には、「ようやく終わる」ような雰囲気となり、この時点でA高校がSSH指定を継続することはなかった。
A高校の指定期間が終わろうとする平成18年、再びF高校に県教委からSSH指定の打診があった。「無理」と答えてからここまでの間、校内規定の改革や男女共学化に伴う環境整備、風通しの良い職場作りなど着実に前進している手応えがあった。また、このときの校長は極めて前向きな革新派。状況は良い方に変化していた。そして、平成19年、F高校はA高校に代わってSSH指定校となった。直接的にA高校の事例が教訓となったという訳ではなかったと思うが、F高校では教頭を中心に「学校全体で取り組もう」という組織作りが行われた。とはいえ、最初から上手く行ったわけではなく、反発もあった。道のりでは困難であったが、この時期、今に続く取り組みの基礎が築かれていった。余談だが、SSH指定校になった最初の講演会は、超新星爆発によるニュートリノの検出により、ノーベル賞を受賞された小柴昌俊先生だった。SSH指定校になるってすごい事なんだな。そんな感想を抱いたものである。
2年後の平成21年4月、F高校で学年主任の3年間を終えた私は、教頭としてA高校に赴任することとなった。ある意味因縁の、元SSH指定校である。SSHの主担当者はその役割を終えて学年を担任し、このとき3年生の担任となっていた。彼は専門性が高く、言葉に力があり、生徒を鼓舞し、活力が生まれていた。ただ、教科の力や指導力は抜群だったが、全体の調整は苦手だった。この点が、SSHでは上手く行かなかった理由か?そう思ったが、この学年では上手くいっている。その理由をひもとくと、この学年には、包容力があって親分肌の学年主任と、同じ教科を担当する良き理解者がいる事がわかった。この2人がコントローラーとなり、学年スタッフもチームワークを大切にする学年スタッフとの相乗効果が生まれ、生徒は生き生きと才能を伸ばし、成果をあげていった。A校でのSSHは、調整役が機能し、担当者の優れた能力を生かすことができれば、1期で終わることはなかったのかも知れない。SSHは1人の力だけで成果を上げられる事業ではなく、学校全体として取り組まなくてはならない。後に考えれば当然であることが、初めての取り組みでは客観的にできなかったのだろう。このことは、教訓として、SSH指定校は勿論、その後のSGHやSPH(*)などの研究指定校に受け継がれていくことになるのだが、それはまだ先の話である。
長くなったが、まだ20余年の4分の1しか進んでいない。(続く)
(*)SGH・・・スーパー・グローバル・ハイスクール
SPH・・・スーパー・プロフェッショナル・ハイスクール