<2024年2月19日>
 責任、と言う言葉に妙に反応してしまった。私が「無責任だ」と責められたわけではない。近所のA君が米作りをやめるかも知れない、という話題に対して「無責任だと思うんだよね」と発した妻の言葉に過剰に反応してしまったのである。2019年の台風被害で崩れた山、神社周辺の水路の詰まりなど、地域には土地・山・川などの管理に関する課題が山積しており、過疎化・高齢化も重なって解決の方向性が見えない。
 今回の場合、A君が耕作しないと決まったわけではない。仮の話をしただけである。果たしている責任いう意味では、A君は町内会・神社・体育協会など多くの組織の役割を担っており、私よりよっぽど役割を果たしている。そんなA君が「責任」という言葉で責められそうになったと、つい、過剰に反応してしまったのだ。
 再就職をし、地域スポーツや大学関係の役員、演劇鑑賞会や「芸術ホールを創る会」への参加など、住んでいる地区以外との関わりが大きく、現役時代よりよほど多忙感がある。夕方は老親の世話を中心に家事で時が過ぎ、生産的なこと、あるいは実になることを何もしていないような気がする。還暦を超えて生産的なことをしなくても良いのかも知れないが、学びは一生である。そう思っているのだが、学びに向かう余裕がないのも現実である。
 根気がなくなってきていると感じる。何に追われるわけでもないのに30分のテレビ番組を見ることが辛くなっている。あれもこれも、色んな事が頭を巡る。築100年を迎えようとしている家屋も悩みの種である。立て付けのゆがみくらいは何とかなるが、雨漏りが始まったら緊急対応が必要になるだろう。老親の今後の介護等はどうなるのか、私の気力、体力は続いているのか、こんな事ばかりが頭を巡っている。

 上記は昨年秋の出来事である。自分で自分の気持ちが制御できず、過剰に反応してしまった理由を自己分析しようと、少し文章にまとめてみたのである。約半年経って文章を少し整えてみたが、自分の気持ちが思うようにならない状態は今もそんなに変わっていない。この間、母親の入院(脳梗塞・約1ヶ月)、父親の足首骨折(つい半月前)など、両親の健康不安は現実化している。耕作放棄の危機であった地域の田んぼは、何とか耕作者が見つかったが、1年凌げただけであって、根本的な解決になったわけではない。
  できるだけ前向きになれるよう、考えるだけでなく行動し、一つ一つ解決していくしかない。それはわかっているのだが、なかなか、と、またまた堂々巡りが始まってしまうのである。