できるだけ何も動かさなように細心の注意を払った。

 

限られた時間の中で失敗は許されないから。

 

動かす前に写真を撮ってから始めた。

 

通帳を取り出した後は写真を見ながら寸分の狂いも無いように元に戻した。

 

はずだったのに。

 

夫に知られてしまった。

 

普通の人なら気づかないようなことでも気づく夫。

 

頭の片隅には早々に気づかれてしまうのではないかという不安もあった。

 

やっぱり気づかれてしまった。

 

こういうところが本当に恐ろしいと思う。

 

多分普通の人なら気づかずにやり過ごすと思うくらいの差なのに。

 

夫のセンサーは異様なほど働くようで………。

 

隠し事をする時には決死の覚悟が必要なのだ。

 

これは前々から感じていたこと。

 

何が困るって、今回は状況的に最悪だということ。

 

別に悪いことをしているわけではない。

 

息子のために積み立てたものであり、いただいた名目も息子のものばかりだ。

 

それなのにものすごく後ろめたく感じるのは何故なのだろうか。

 

夫は私たちに対してだけでなく持ち物などにも執着していた。

 

だから通帳を持ち出したことを知って怒っていないはずがない。

 

今回も性懲りもなく誰かの電話から知らせてきた。

 

留守電に入っていた声はごく普通の口調。

 

激高しているという感じではなく、静かな軽めの声で

 

「通帳を取りに来たんだね」

 

と言っただけ。

 

この状況を知らない人が聞いたら『穏やかな人だね』と言うだろう。

 

だけど、この話し方が余計に怖い。

 

いつもと違う様子が恐怖心を駆り立てた。

 

 

 

 

家を出てからは、以前から比べると夫にだいぶ色んなことを言えるようになった。

 

でも、怒らせたくないという気持ちは消えていない。

 

実は知られた後のことを考えて早速兄に預けてしまったので、手元にはもうない。

 

返せと言われても『兄と交渉してください』としか言いようがない。

 

そもそも『返す』っていうのがおかしいんだけどね。

 

夫の物ではなく息子の物なんだから。

 

私たちはこれまで本当に色んなことを諦めてきた。

 

これからも諦めながら過ごすのだろうと思っていたのだが。

 

あの日、まるで誰かに背中を押されるように家を出ることができた。

 

せっかく手に入れた自由。

 

束縛も監視もされない生活。

 

もう手放すことはできない。

 

夫は以前言っていた。

 

「そっちがその気なら、俺だっていつまでも一人で居るわけじゃない」

 

と。

 

どういう意味なのかと考えたが、たぶん他の誰かと親密になることを示唆しているのだろう。

 

そんなの、私にとっては願ったり叶ったりでむしろこちらからお願いしたいくらいだ。

 

もし夫が通帳を戻すように言って来たら私もきちんと反論しようと思う。

 

これは息子のためのものであなたに権利はないのだと。

 

これから成長していく息子には色んなことにチャレンジして欲しい。

 

それにはどうしてもお金がかかる。

 

シングルマザーとしてやっていくのだから、きっと足りないことも出てくると思う。

 

そんな時にこの通帳があれば、きっと息子の役に立ってくれるはずだ。

 

まだ『通帳を取りに来たんだね』とだけで、その他は何も言われていない。

 

以前から使ってる方の携帯にも連絡が入っているのかもしれないが、あれ以来見ていないので分からない。

 

もし今が嵐の前の静けさなのだとしたら。

 

兄から紹介された弁護士さんとの面談を早めなければと思った。