「お前は何をやっても駄目だ」
夫は常にそう言っていた。
ずっと言われ続けていたので、自分は無価値なのだと感じ、夫の言うことに従っていれば間違いないと安心していた。
馬鹿なのだから夫に反論するなど言語道断という雰囲気だから、歯向かうこともないまま数年を過ごした。
だけど、何かがおかしい。
徐々に自分の中に芽生えた疑問は、私を更に混乱させた。
だって、夫が正しくて私は間違っているのに。
すぐに間違ってしまうから、夫の言うことに従っていたのに。
なぜこんなに苦しいのだろう。
幼い頃から依存心の強かった私は、不安になるとすぐに周囲に頼った。
友人や両親、兄弟にもすぐに頼った。
だから、その依存先が結婚して夫に変わっただけだ。
常に自分に自信が無いのはいつものことだが、夫は私の自信喪失を更に加速させるような言動をした。
それで親や友人に相談しようとすると、そうさせないように仕向けた。
友人のことは、
「こういうところが嫌い。明らかにおかしい」
と言って、常識とはかけ離れた人物だから付き合わない方が良いという。
さすがに両親のことは悪く言えなかったようだが、その代わりに目の前で電話をするととても機嫌が悪くなったため、もっぱら仕事の行き帰りや休憩中に連絡を入れた。
夫が常に家に居るから、仕事に行っている時しか自由な時は無いけれど。
その間も時々電話が入って、出られない場合にはすぐに折り返さないと激高してその後に怒鳴られたり無視されたり、息子が理不尽に怒られたりする。
段々と心が疲弊していったが、もう両親には相談しようという気力も無くなっていった。
相談すること自体が「悪」のように思わされていたのもあって、こんな風に考える自分が間違っていると思い込むことで、どこか安心していた。
「会社の人たちもお前のこと、色々と言っていたよ」
新卒で入った会社で夫と出会ってしまったわけだが、その会社の先輩は皆良い人たちで、和気あいあいと仕事をしていた。
元来人見知りであまり先輩になつくというタイプではなかったが、とてもかわいがってもらって時々ご飯にも連れて行ってもらった。
だから、嫌われていたと聞かされた瞬間とても悲しくなった。
上手く行っていると思っていたのに、やっぱり私はダメな人間なんだ。
息子が小学校に入る頃には、もう自尊心の欠片もなかった。
こんな私と一緒に居てもらって申し訳ないな。
そういう気持ちが心の奥底にあったのを、きっと夫も気づいていたのだと思う。
怒鳴られても無視されても最終的になかなか逃げ出せなかったのは、自分に自信が無さ過ぎて、次の一歩をどう踏み出せば良いのかが分からなかったのが大きかった。
逃げ出したい、と強く思った次の瞬間に、でも私なんて一人では息子を育てられないと思う。
息子にとって夫は害にしかならないのだから、さっさと出て行った方が良いと決心した直後に、そう思う自分が歪んでいるのではないかと不安になる。
それを何百回と繰り返し、自分の気持ちをじっくりと考えてみたら、夫に支配されていることに安心感を感じているのだと気づいた。
支配されている間は自分で考えなくても良い。間違った判断をすることもない。
でも、それは私の都合で、息子にははた迷惑な話だ。
本当は逃げ出したい。
病気の夫を放り出して逃げ出したら、人間のクズですか?
一度、夫に
「もう離れて暮らしたい」
と言ったことがある。
そうしたら夫は暴れて食器を割り、リモコンをテレビに投げつけて号泣した。
そして
「もう俺が死ねば良いんだろ?! 邪魔なんだろ?!」
と言った。
その姿を見ていてとても悲しかった。
切なかった。
大の男に泣きながら
「見捨てるのか!!」
と言われたら、可哀そうに思わない人がいるだろうか。
この時、自分がどうしようもないくらいに非情な人間に思えて、実行に移すことができなくなった。
こんなバカな私を必要としてくれる人は夫だけだ。
夫が正しい方向に導いてくれるから、安心して暮らしていける。
本当におかしな話だが、あの頃は夫が100%正しいと信じて疑わなかった。
自分をごまかしながら過ごしていたが、ゆがんだ生活はそう長くは続かなかった。
私の心の中は常に葛藤していて、(夫が正しいし離れるのは可哀そう)という気持ちと(こんなに辛い生活を送るのは限界だ、離れたい)という気持ちが交互に湧き上がっては、現状維持が一番だと自分を納得させていた。
納得させたつもりだったのだが。
どうやらできていなかったようだ。
後日、夫から逃げ出して息子と二人で生活し始めた時、開放感を感じるのと同時にとても心細くなった。
これからは自分を導いてくれる人がいない。
間違ったことをしてしまったらどうしよう。
夫に酷いことをしてしまった。
こんな非情なことをできる私は最悪な人間だ。
脱出できたのに、しばらくはそんな気持ちを持ち続けていたから、二人の生活を楽しむどころか、定期的に罪悪感や後悔、不安といった感情に押しつぶされそうになった。