かたりましょうのたかしまりょうです。
今日は、3月15日。
サイコー(315)の日、ですね。
編集者さんと次の本の打ち合わせをしたんですが、
そのときにこの“サイコーの日”の話をしたんです。
すると、編集者さんも、
「なるほど~」
よかったー、わかってもらえたー、
と思っていたら、
次の言葉が。
「最後の日、っていうのもありですね」
あっ!たしかに!
今度はぼくが思わず、
「なるほど~」
“315”と見たら、パブロフの犬級に“サイコー”と読んできたぼくには、
“最後”というのは思いもよらない読み方でした(^^;)。
感心していると、
さらに編集者さんが、
「“315”と聞いて、“サイコーの日”と思う人と、
“最後の日”って思う人がいるんじゃないでしょうか。
どちらを思うかで、運がいい人とそうでない人に
分かれる気もしますね」
ぼくはまたもや、
「なるほど~」
たしかにそうかもしれません。
“サイコー”と読むか、
“最後”と読むか、
ただそれだけの違いにすぎないし、
“サイコー”が良くて、
“最後”が悪いというものでもありません。
でも、何か(同じもの)を見たときに、
それをどちらから見るかで、
その人の運も変わってくるのではないでしょうか?
なぜなら、
「運」とは、「見方・受け取り方・感じ方」のことだから。
普通、運というと、
幸運や不運というように「良い運」と「悪い運」というものがある、
と考えられがちです。
あるいは、
「運気」や「運の波」みたいなものがあって、
良い運気や運の波に恵まれた人や時期のことを「運が良い」といい、
悪い運気や運の波に見舞われた人や時期のことを「運が悪い」という、
といいイメージでしょう。
でも、そうではないんです。
一見、運(気)が良いと見えても、それが本当に良いことかどうかはわからないし、
一見、運(気)が悪いと見えても、それが本当に悪いことがどうかもわからない。
有名な「人間(じんかん)万事塞翁が馬」の故事も、
それを言っています。
「塞翁が馬」は、普通は、
「物事の禍福(吉凶、幸不幸)は転々として予測できない」ことのたとえとされます。
「飼っていた馬が逃げた」のは悪いこと(不運)、
「逃げた馬が名馬を連れて帰って来た」のは良いこと(幸運)、
「馬に乗っていた息子が落馬してケガをした」のは悪いこと(不運)、
「ケガをしていたので戦争に行かずに済んだ」のは良いこと(幸運)、
というとらえ方です。
でも、それは、
「良いことと悪いことはいつやってくるかわからない」というとらえ方であって、
それでは本質をとらえそこねてしまう気がします。
なぜなら、物事自体に「良い・悪い」はなく、
人間が勝手に意味づけしているにすぎない、
というのが本質だからです。
だから、塞翁が馬も、正確に言うと(ちょっとくどい言い方になりますが)、
「飼っていた馬が逃げた」のは悪いこととは限らない(悪いことと見ることもできるけど)、
「逃げた馬が名馬を連れて帰って来た」のは良いこととは限らない(良いことと見ることもできるけど)、
「馬に乗っていた息子が落馬してケガをした」のは悪いこととは限らない(悪いことと見ることもできるけど)、
「ケガをしていたので戦争に行かずに済んだ」のは良いこととは限らない(良いことと見ることもできるけど)、
となります。
どちらから見るか、どこ(どの範囲)まで見るかで、
物事の意味はいくらでも変わるんです。
「良い・悪い」と同様に、
「正しい・間違い」も、
「成功・失敗」も、
「幸・不幸」も、
「幸運(好運)・不運」も、
絶対的に(あらかじめ)決まっているものではありません。
単に、見る人がそう意味づけただけです。
だから、
してはいけない大寝坊をしてしまったときは、
世界が終わったと思えるほどの失敗と感じるかもしれませんが、
そのおかげで、
普通ではありえない“神さまとのご対面”を果たせることもあるんです(詳細は別の機会に^^;)。
してはいけない居眠りをしてしまったときも、
主催者としてあるまじき失態をしてしまったと思うかもしれませんが、
それも、
笑ってゆるしてもらったおかげで場が和むことだってあるんです(詳細は別の機会に^^;)。
(なんか、寝たネタばっかりやな~^^;。って、ねたんではいけません^^)
長くなりましたが、まとめると、
「運」とは、あらかじめ意味(良いとか悪いとか)の決まっているもの(波、気)ではなく、
物事をどうとらえるかということ、
となります。
「運」とは「波(気)」ではない。
「運」とは「見方」である。
そんなことを、編集者さんの言葉から思いました。
ところで・・・
鹿児島ではやっぱり、
315は、“西郷さんの日”なのかなあ(^^)。