東日本大震災で大半の広告がお蔵入り。 非常時に自分は何ができるのか。 | 戦略PRプロデューサー・片岡英彦【公式】ブログ

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東日本大震災をきっかけに、仕事や人生に対する考え方が変わった人は多いのではないだろうか。私は、あの出来事がきっかけで5度目となる転職をしたが、今までの転職とは異なり、いろいろな可能性のなかから、諦めずに最善の方法を見出した。

 

私にとっては、これまでの企業から企業への転職とは違う、分岐点となるような転職だった。

 

ミクシィに入社して2年目の2011 年3月11日に、東日本大震災が発生した。ミクシィがちょうど期間限定のテレビCMスポットをはじめた翌日であった。

 

ご記憶の方も多いと思うが、テレビ番組のCMの多くはニュース速報や特別番組に変わり、自粛された。ミクシィのスポットCMも予定していた大半の枠が放送中止となった。高額の広告費を使ってスポット枠を買っていたが、その多くはAC広告のCMに差し替わった。

 

最初のうちは「こりゃ大変なことになった。広告費は返ってくるのか?」という素朴な疑問が生じたが、震災や津波の映像を目にするうちに「そんなことを考えている場合ではない」という思いが強くなっていった。

 

大震災の経験は、1995年の阪神・淡路大震災についで2度目。前回、私は報道記者として駆け出しのころで、右も左もわからないまま現場に放り出された。無我夢中で取材をすると同時に、自分の無力さに打ちひしがれた。

 

東日本大震災では、いてもたってもいられなかった。

 

とはいえ、現場に自分が赴いたところで、今の自分にできることが少ないのはわかっていた。仮に自分の貯金を切り崩して、半年くらい現地でボランティアに参加することも可能だが、自分には家族もいる。自分の家族を顧みず、後先を考えずに、先の見通しが立たないことはできない。個人の力には限界がある。

 

自分の「過去の経験を活かす」ことは、これまであまりこだわってこなかったが、今回ばかりは自分の経験が活かせる形で、何らかの被災地に関わることをしたかった。だから、広報やプロモーションのプロという立場で、できることは何かと考えた。

 

そんなとき、世界の医療団というフランスの国際NGO団体が広報職員を募集していることを知った。世界の医療団といえば、国境なき医師団の創立者でもあるフランス人医師ベルナール・クシュネルが、1980年に創立した歴史ある団体である。

 

他のNGOが震災直後から現地入りして支援活動をはじめていたのに対し、世界の医療団は長期にわたって息の長い医療支援活動をする団体として知られている。東日本大震災の発生以降、他の団体が活動を休止した後も現地での長期医療支援を行った。

 

発生直後から半年~1年といった短期的には、被災に関する多くのメディア報道が行われるため、人も支援金も集まる。ボランティアも全国から大勢が協力するだろう。一方で3年、5年の中長期にわたって支援活動を行うことは、どのような団体も、まして個人ではなおさら難しい。多くの困難がともなう。

 

これまでメディアのなかにいた自分だからこそ、わかる。メディアの報道は、発生から1年が経つと半減かさらに縮小する。3年経つと、ほぼ通常体制に戻る。ボランティアは長期支援を継続するとなると、年度をまたぐことで資金的な困難もともなう。本当の「広報の力」が試されるのは、東日本大震災においては「長期支援」だと直感した。

 

「広報という立場で、腰を据えて支援活動に携わりたい」という私の直感は、今から考えれば正しい。世界の医療団という団体は、これに最も相応しい団体だったと思う。 2011年9月から、この団体で働くことになった。ただし、最も大きな課題は、私自身の生活面だった。

 

今までメディア業界から外資系企業やベンチャー企業へと、自分なりにキャリア面でも収入面でもステップアップを重ねてきたが、今回のチャレンジについては、これまでとは勝手が違った。非営利団体という性質上、正職員とはいえこれまでと同水準の収入は得られない。給与の上限は最初から明確に決まっていた。必ずしも成果主義でインセンティブ制度があるわけでもない。

 

これまでは、少なくとも転職をすることによって、ポジションが上がり、責任が増えることによって年俸も増えてきた。そして結婚をして、二人の子どもいる。

 

いったい、どうしたものか......。

 

これまで自分がつねに選択したのは「できない理由」でなはなく「できる方法」を考 えること。今回もそのように努めた。

 

世界の医療団の当時の事務局長は、フランス人の女性だった。率直に、個人的な相談と前置きした上で、週日をフルタイムで働くと、現在の年俸がおよそ3分の1になるので家族が生活できないと伝えた。その上で、世界の医療団で働きたいので一緒に「できる方法を考えて欲しい」と伝えた。

 

すると異例のことだったかもしれないが、「週3日勤務、かつフレックス」という提案をしてくれた。私の経歴を見て、週3日勤務というイレギュラーな雇用形態を認めてくれたのだ。

 

もっとも、週5日勤務でない分、収入は5分の1になった。ただし週3日のNGO勤務とすることで、残り週4日は個人事務所でPRプロデューサーとして企業のマーケティング支援などのコンサルティング活動などを行うことができる。あとは私自身の「時間の使い方」と「稼ぎ方」の問題になる。週3日をNGOで働き、収入が5分の1になったとしても、残りの週4日で前職の5分の4以上の収入を得られれば、前職と変わらない生活水準を継続できる。

 

問題は週4日の勤務で、どこまで安定的に収入を得られるかどうか......。

 

これまでの転職では「やりたい」という思いが強く、給与や待遇は後から独りでについてきたが、このときばかりは周囲から多大なサポートをいただいた。これまで付き合いのあったところだけでなく、新規も含めて複数の企業から声をかけていただき、年間契約として安定した業務委託契約を結べた。

 

仕事をいただける目処が立った時点で、個人事業主として登録し、これで当面は今まで通りの生活を維持できる見通しが立った。しかし、今思えば忙しい毎日だった。

 

世界の医療団に転職してからは、本当の意味での「休み」をとった記憶はない。「週に一日も休みがないなんて!」と思われるかもしれないが、そう思うのはおそらく企業勤めの人だろう。そもそもフリーランスや企業経営者には「土日」といった感覚は ない人が多い。このころは逆に休みが一日でもあると、かえって不安になったくらいだ。 幸い年間契約をいただいた企業の他にも、イべントPRや定期的な講演依頼やプロジェクト参加依頼などをいくつもいただいた。以来6年が経っているが、生活面では家族 に不便はかけないで済んでいる。

 

人生、いつ何どき何が起こるかわからない。

 

やりたかったこと、やり残したことを忘れずに持っていると、何かの拍子に歯車が合って動き出すことがある。私の場合は新人記者として阪神 ・ 淡路大震災のときにロク に役に立てなかったことが、心のどこかでトゲとなり心に刺さっていたのかもしれない。

 

「やりがい」と「収入」「生活」のバランスを考えつつ、5回目の転職では最善の策を練ることができた。

 

よく「起業(独立)した理由はなんですか?」と問われるが、こうした経緯だったため、現在にいたるまで独立した明確な理念や信念などはない。週3日をNGOという非営利団体の広報責任者として被災地などの支援活動を行い、残りの週4日を企業などのPRやマーケティング支援という営利活動を行う。残りの週4日の営利活動のために、起業したということだ。その時点では、そうすることが最善であったし、他に方法はなかった。

 

このとき「できない理由」をいい出したらキリがなかったが、「できる方法」を提案してくれた世界の医療団の仲間たちと、個人事業主として駆け出しのころ、私のあまり得意でない事務・経理関連の複雑な仕事を快く引き受けてくれた友人たちには、今でも感謝の気持ちでいっぱいだ。そして、好きにやらせてくれた家族、個人事業主にもなった私に仕事を依頼してくださった方々。この恩は、ずっと忘れられない(返せないかも しれないが、忘れずにいたい)。

 

企業とは異なる非営利団体への転職は難しい選択ではあったが、このときに決断し行動に移せたことは良かったと思う。私が転職をすると、どんな大企業やキャリアアップ であっても、妻は必ず最初は反対をしたが、なぜかこのときだけは「やった方がいい」と後押ししてくれた。安定収入は大きく下がる恐れがあるときに限って、背中を押してくれた。

 

もしかすると、「(収入が大きく下がるかもしれないけど)それでもやってみたいんでしょ。やらないで後悔するよりマシ」と感じてくれていたのではないか。


※ 8/31日発売の"自叙伝"より一部、先出し公開します。【日本テレビ・アップル・MTV・マクドナルド・ミクシィ・世界の医療団で学んだ、「超」仕事術】(方丈社)