熊野古道世界遺産登録20周年
今から25年前の1999年にジャパンエキスポ南紀熊野体験博が開催されました。
当時、博覧会を担当してくれた地方紙の記者の方と話をする機会がありました。
会期前と会期中は毎日のように資料提供と取材対応を行っていました。
博覧会場内の事務所棟にはプレスルームを設置していたので、広報担当としてここでの取材依頼や取材対応、そして懇談など行ったことが懐かしく思い出しました。
期間中は毎日のように記事にしていただき、広報としてスクラップしていたことも思い出しました。
連日残業していたのですが、一日が直ぐに過ぎてしまったことを覚えています。
今でいうとブラック的な働き方でしたが、それはやりがいの裏返しで「自分でも良くやった」と思っています。
仕事に負荷がないとやりがいにつながりませんし仕事が充実したものにならないと思います。
何よりも漫然とした仕事をしているだけでは記憶にも思い出にもなりませんから、何も残らないと思います。
日常の仕事よりも負荷がかかった仕事に携われたことは成長につながったと思いますし、博覧会という貴重な経験をさせてもらったことに感謝しています。
この記者の方は
「早いもので、今年で熊野古道が世界遺産に登録されてから20周年を迎えています。
私は南紀熊野体験博がなければ世界遺産に登録されていなかったと思っています。
博覧会があったからこそ世界遺産になったのは間違いありません。
しかしあれから20年が経過して、当時、担当していた職員さんが県庁を去り、あの頃を知る人は少なくなってきました。
今では県庁内でも市町でも南紀熊野体験博のことを話す職員さんはいませんし、記憶の中から消えているように思います。
もちろんそれ以降に入庁した職員さんは博覧会があったことも知りません。
世界遺産登録20周年をお祝いすることは大事なことで、その重大なプロセスであった博覧会が埋もれてしまっていることを懸念しています。
世界遺産という結果が出るまでに、懸命に取り組んだ人がいたことを忘れてはならないと思います。
そして今の和歌山県の実力では県単独で博覧会をする体力も資力も、企画する力もないと思います。
振り返ると紀南地域で『良くやってくれたな』と感謝しています。
熊野古道が観光地になったのもインバウンド観光客が訪れるようになったのも、博覧会があったからこそです。
先週の土曜日に和歌山市に秋篠宮殿下が来県されました。
取材に訪れたのですが、その現場で行幸担当をしていた職員さんに会いました。
彼は当時の博覧会実行委員会の職員さんです。
その時に行幸担当をしていた経験を買われて、それ以降、県庁内での行幸担当を担っています。
あの時の経験が、彼を行幸担当の主力に押し上げていることを頼もしく、そして嬉しく思っています」。
僕は記者さんに対して
「あの頃はまだ若かったので広報担当としての役割は果たしていたと思いますが、困った時には上司が助けてくれていたと思いますし、日常の仕事も陰で支えてくれていたと思います。
あの時の実行委員会局長や次長を超える年齢になって思うことは、『本当に立派で凄い上司だった』ということです。
もしも今、僕に博覧会の責任者をやれと言われたらうまく運営する自信はありません。
今思うと、よくぞ未体験の博覧会の責任者を引き受けて、実行委員をリードしてくれたと思います。
責任者としての立場は勿論のこと、各職場から寄せ集めた職員をまとめ上げて一つの目標に向かわせた手腕、そして全国に向けて博覧会を発信した人脈と力。
そして地方博覧会でありながら、『癒す、満たす、蘇る』のテーマを掲げてわが国が必要としている価値を全国に発信したことは凄い功績だと思います。
事実、その年の流行語大賞に松坂大輔投手の『リベンジ』などと共に南紀熊野体験博の『癒し』が選ばれて表彰されたのです。
この仕事に携われたことは誇りですし、今につながる自信の根拠になっています。
令和6年は熊野古道世界遺産登録20周年の年であると共に、南紀熊野体験博実行委員会としても20周年を迎える年になります」。
この記者は「今一度、南紀熊野体験博が遺したもの、その功績を記事にしたいなぁと思っています」と話してくれたことは、とても嬉しいことです。
懐かしくて今につながる話をさせてもらえたことに感謝しています。