太田城水攻めの歴史を探る | 片桐あきひろオフィシャルブログ

太田城水攻めの歴史を探る

いきいきシニアわかやま主催の「太田城水攻めの歴史を探る」ウォークに参加しました。

今回の案内は坂本さんと山本さんのお二人でした。

JR和歌山駅東口に集合、太田左近像から田中口堤道跡、惣光寺、日前宮から秋月城跡などをウォークで楽しみました。

地元なのに知らない歴史の跡がありました。

 

田中口堤道跡はJR紀勢線の線路沿いにあり、豊臣秀吉が水攻めに際して太田城を囲むように2カ月で築いた堤の跡が道になっています。

当時の堤は高さ約7メートルもあったようで、紀の川の水を引き込み太田城の周囲を水で囲ったのです。

約1カ月籠城していましたが、城主であった太田左近は降伏し、紀州は豊臣秀吉に支配されることになりました。

 

 

ところで田中口堤は徳川頼宣が入国した時に取り壊されて道として利用されるようになりました。

この田中口堤道は龍神村まで続く道として利用され、現在紀勢線のも踏切には「竜神街道」と記されていました。

 

 

ここに歴史の跡が刻まれていることに氣づきました。

 

「竜神街道」沿いに惚光寺があり、このお寺に豊臣秀吉の太田城「水攻めの図」が保存されているようです。

 

 

また水攻めの堤は現在の宮街道の中央分離帯に築かれており、途中、向陽高校のグラウンドを横切り田中口に続いていたそうです。

太田城を取り囲むように、日前宮の北側に堤を築いていったのです。

 

豊臣秀吉が紀州攻めを行ったのは、紀州を除く関西を平定したことで残るは紀州だけになったこと。

そして紀州は海路の要衝であり温暖な地であったことから、天下統一のために必要な土地だったからです。

 

ところでこの時代の紀州のお城は領主が支配していた他の地域と異なり、日前宮を護るためにお城が築かれたと説明してくれました。

伊勢神宮と同様に日前宮はわが国の重要な神宮であり、紀州として護る必要性があったのです。

参考までに、伊勢神宮は大和への東の出口に対して日前宮は西の出口にあたるため、日前宮は伊勢神宮と同等の力があったと言われているようです。

 

そのため日前宮を護るため四方にお城が築かれていたのです。

北東には秋月城、北西には太田城、南東には井辺城、そして南西には三葛城があり、4つのお城が日前宮を護っていたのです。

 

中世は仏教への信仰が強く、紀州には4つか5つの宗教が「大いなる共和国的存在」であり、当時のことをフロイスは高野山、粉河寺、根来寺、雑賀衆(雑賀惣国)と名前を挙げています。

紀州は寺社勢力や惣国は高い経済力と軍事力を擁して地域自治を行った特殊な地域だったのです。

そのため有力な武家勢力、つまり大名が存在していなかったことが紀州の特異性です。

 

日前宮がこの地域の中心地だったことは、現在の地名から分かります。

日前宮の地元が宮地区、北が宮北地区、南西の前に位置するのが宮前地区、そして南には神前地区という地名になっています。

 

 

車だと通り過ぎてしまいますが、歩くことで分かる地元の歴史があります。

日前宮を囲んで4つのお城があったことは知りませんでしたし、しかもそのお城は領土を支配した大名のものではなくて、日前宮を護るためのお城だったことを知りました。

 

大田城と宮地区を巡る歴史ウォークは地元を知る機会となりました。

歩いて分かること、感じることがたくさんありました。

次回は徳川吉宗の歴史の跡を訪ねるウォークを計画していると聞きました。

 

地元の歴史を伝えてくれている「いきいきシニアわかやま」の歴史ウォークを始めとする活動に敬意を表しています。