和歌山ぶらくり会 | 片桐あきひろオフィシャルブログ

和歌山ぶらくり会

第三回「和歌山ぶらくり会」に出席しました。

昨年末に「来年3月に「和歌山ぶらくり会」を開催するので講師をお願いできませんか」と依頼を受けていました。

その時に「卓話テーマは『宗光と龍馬 未来への伝言』でお願いします」とのことでした。

即座に引き受けたのですが、「まだまだ先のこと」だと思っていたところ、あっという間に卓話の日を迎えました。

丁度、今朝、串本町で民間ロケット「カイロス」初号機の打ち上げの日となり、動画で中継を視ていたのですが残念ながら延期となり、午後から「宇宙に最も近い和歌山県」を強く話そうと思っていたのですが、宇宙に関して時間を長く割くことは控えました。

 

 

さて「宗光と龍馬 未来への伝言」の趣旨を要約したものが次の通りです。

 

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第一部は「今年7月に開催予定の『龍馬と宗光 未来の伝言』の開催と大会誘致の経緯について。

後半の第二部は、宗光と龍馬が目指した未来、つまり現代の日本を築こうとした志と行動について説明することにします。

 

全国大会の主催は実行委員会ですが、母体となるのが「紀州宗光 龍馬会」です。

当時、和歌山県には龍馬会は存在しませんでした。全国の中で和歌山県だけ龍馬会が無かったのです。

歴史から見ると紀州と土佐は「いろは丸事件」があったことから関係は良くありませんでした。

その影響なのか龍馬ファンはいると思いますが、熱心な人はそれほど多くないと思います。

しかし龍馬と宗光は海援隊で師弟関係にあり、龍馬の意志を引き継いで明治新政府で描いた夢を実現させた人物が宗光なので、無い方がおかしいと思いました。

そこで紀州宗光と龍馬の両雄を称えるため「紀州宗光 龍馬会」と名称を決定して藩士坂本家十代目を和歌山県に向かえて認証と発足式を行いました。

 


発足した直後の高知市で開催された「龍馬会総会」に参加、挨拶をしたのですが、その時「紀州から来てくれたのか。これまで無かったのにようやく土佐に来てくれたことを歓迎したい。江戸時代から続いていたいろは丸事件のことは、ようやく和解できるので嬉しいぜよ」と迎えてくれました。

総会の場所は龍馬生誕の地でした。

これは主観ですが、江戸の歴史が平成で変わった瞬間を感じました。

そこから和歌山県内で陸奥宗光伯を顕彰する活動に龍馬を交えて、大政奉還から明治維新、そして不平等条約改正までの二人の行動と志を語り始めたのです。

歴史は一人の英雄で築けるものではなく、志を同じくした人が一緒に行動したことから成し得ることばかりです。

龍馬が築いた維新の土台を新政府の中で実現させて近代国家を築いたのが宗光だったのです。

だから和歌山県で「龍馬の全国大会を開催するべき」だと考えて、しかもその時期は、不平等条約改正を成し遂げた年から130年目を迎える令和5年に開催することを目指したのです。

しかし龍馬会にとって新参者である紀州が、全国大会を簡単に主催できるわけではありません。

全国大会は歴史ある全国の龍馬会が存在する県で開催されてきたのです。

しかも東京や京都、愛媛や北海道など、龍馬のゆかりの地が開催地になることが多かったのです。

紀州は龍馬にとって政敵ですから壁は厚いと思っていましたが、開催県に名乗りを上げることにチャレンジしました。

その結果令和6年に全国大会である「龍馬World in和歌山」を開催することが決定したのです。

目指していた通り「日英通商航海条約」締結から130年目の年に開催することになったのです。

歴史ある龍馬会の全国大会が和歌山県で開催されるので、ご参加いただきますようお願いいたします。

大会会長には学長に就任してもらっているので、和歌山大学ともご縁がある大会ですので、ご協力をお願いいたします。

 

さて後半は「龍馬と宗光、その時代背景について」説明していきます。

 

江戸時代の紀州藩は、現在の三重県松阪市まで含む大きな藩でした。

御三家ですから石高もあり力のある藩だったのです。

そんな紀州に生まれた宗光ですが、父親の伊達千広が紀州徳川家のお家騒動に巻き込まれ、田辺市に左遷され蟄居を命じられます。

幼い宗光は和歌山城から十里離れた場所まで追放されたのです。

現在もその十里松は橋本市高野口町にあり西岡さんという方が護ってくれています。

 

その後、宗光は高野口から高野山に移り、才能を見込まれて江戸に行くことになります。

江戸で勉学に励んでいた宗光ですが、その頃、追放を解かれた伊達千広は紀州に戻り、そこから京都に移り住むことになります。

理由は京都の学習院で国学の先生として迎え入れられたためです。

伊達千広の国学を学ぶため全国から若い武士が集まってきました。

その中の一人が坂本龍馬でした。

伊達千広は龍馬の才覚を見抜いたので、「会わせたい人物がいる」と言って宗光を京都に呼びます。

父親の紹介で宗光は龍馬と出会うのです。

 

二人の出会いが幕末の歴史を動かしていくことになります。

二人は勝海舟の海軍操練所で航海術を学ぶことになります。

海軍操練所はわずか1年で閉じられることになるのですが、二人は亀山社中、後の海援隊で行動を共にすることになります。

ここに師弟関係が生まれたのです。

 

海の上で龍馬は「新政府綱領八策」を書き上げます。

これは龍馬一人で仕上げたモノではなく、出会った人たちの意見を聴き、その中からこの国が近代国家になるために必要と思われる政策を取り入れたものです。

龍馬だけの意見ではないことは龍馬の価値を落とすものではありません。

むしろ人の意見を集約して必要な政策を拾い上げる力は誇るべきものだと思います。

 

俗に言う船中八策の中には「国際条約を定める」「憲法をつくる」「議会をつくる」「陸軍、海軍をつくる」そして「金銀交換レートを定める」など新国家の骨格となる政策をまとめたのです。

これが大政奉還と明治維新へとつながっていくことになるのですが、龍馬が描いた夢を宗光が新政府で次々に実現させていくことになるのです。

 

さて当時の国際情勢は欧米の列強がアジアとアフリカの国々を支配し、植民地にしていきます。

アジアで独立していたのは日本と韓国、タイだけで、他の国は全て植民地として支配されていたのです。

列強の脅威はそこまで迫っていたのです。

しかもロシアは南下政策を推し進め、ヨーロッパとアジアの両地域で南に進んでいたのです。

 

このままでは日本は列強の支配されることになる。

若い志士たちが危機感を持って倒幕に向けて行動したのは、外敵から国を護るためだったのです。

列強15か国と不平等条約を締結されていた幕府は機能不全に陥っており、幕府が政治にこのまま政治に携わっていたらいずれ列強に支配されることは明白で、そうならないために天皇を中心とした強い国を築くことで列強に対抗しようと考えたのです。

 

アジアとアメリカとの間に位置する日本や台湾は列強であるロシアとアメリカにとって地政学的に獲りたい国だったのです。

現代ではここに中国の存在もあります。

明治維新に向かう要因の一つが列強の存在でした。

 

もう一つが巨大地震と疫病の流行です。

巨大地震によって国土が破壊されると復興のために人と予算、そして資材などが必要となります。

財政出動を余儀なくされることから幕府が財政難に陥り、財政面からも弱体化していきます。

 

しかも疫病が流行し始めます。

安政4年にインフルエンザ、当時のスペイン風邪、安政5年にはコレラ、安政6年には麻疹が流行したので、幕府はその対応に追われます。

死者が増え、財政出動も増えたので、ますます弱体化していくのです。

 

震災や疫病が次々に発生したことから幕府は年号を安政から慶応に変えることになります。

慶応に変えた3年後に大政奉還を迎え、慶応4年に明治に改元することになりますから、安政から慶応へと向かう時期が幕末のハイライトになるのです。

 

 

さて明治新政府で宗光が成し遂げた主なものは次の通りです。

 

徴兵制、廃藩置県、地租改正、憲法素案づくり、初の対等条約となる日墨修好通商条約の締結、不平等条約を改正した日英通商航海条約などです。

国防、税制、憲法の基礎を築き、不平等条約改正を実現し国家近代化を成し遂げたのです。

 

特に宗光最大の功績は当時の覇権国だったイギリスとの間で締結した日英通商航海条約で、領事裁判権の撤廃、関税自主権の一部回復、全て回復させるのは小村寿太郎外務大臣の時になります。

そして最恵国待遇を認めさせることで、新政府の悲願であった不平等条約を改正することで、近代国家、列強に一等国と認めさせることになったのです。

ここに日本は近代国家への道筋が開いたのです。

 

宗光が凄かったところは当時の覇権国であったイギリスとの間で条約改正を目指したことです。

通常であれば一番強い相手と最初に交渉すること、つまり近代化を賭けた戦いをすることはしません。

しかし覇権国と交渉を行ったのです。

宗光が剃刀大臣と呼ばれた秘密は情報力にあったのです。宗光は出獄した後に欧米を訪問しています。

この時、ロシアも訪問しているのです。

この時に人脈を築き、帰国後も人脈を生かして情報を得ていたのです。

早く情報を得ることは交渉を優位に進めることができます。ロシアがヨーロッパとアジアで南下政策を取ろうとしていたことはイギリスも宗光も知っていました。

 

その情報を元にして「日本がロシアに支配されたら次はイギリスの番ですよ。それよりも、イギリスが日本と平等条約を締結することで日本は世界から一等国と認められます。ロシアの南下を防ぐことができるので、ここは手を組みましょう」と交渉したのです。

 

情報収集力が剃刀の秘密だったのです。今も昔も変わっていません。

情報を得ることは優位に立つことであり、情報を得るには人脈が必要だということです。

 

このようにしてわが国が不平等条約改正を成し遂げたことは、わが国だけでなく植民地とされていたアジアとアフリカに一隅の光を差し伸べたことになったのです。

これは現代のイメージでいうと人権の開放を勝ち取ったようなものです。

またそれは、わが国が存続をかけて近代化を成し遂げ、法の支配による国家として歩み始めることになったことを意味しています。

 

そしていよいよ結論です。

 

不平等条約の改正は、坂本龍馬を始めとする新国家建設のために生命を費やした維新志士達の大願であったのです。

そして龍馬亡き後に27年の歳月をかけて陸奥宗光外務大臣が不平等条約改正を成し遂げたのです。

龍馬の志を宗光が受け継いで、その想いを実現させたのです。

歴史は人の熱意と志、行動によって築かれる、そして変えられるものだということです。

 

龍馬と宗光が成し遂げた近代国家へ道は続いています。

現在、経済力は世界4位となり国力が低下していますが、二人の英雄の志を受け継ぎ、行動することで国際的地位は維持できます。

私達が二人の功績から学ぶことによって、今と将来の日本国を護ることになるのです。

今日の講義で、龍馬と宗光からの未来への伝言を受け取ってもらえたら嬉しいことです。

 

時間は予定していた90分となりました。ご清聴ありがとうございました。

 

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