わたしの熊本(とことん少数派の) | 松山市はなみずき通り近くの漢方専門薬局・針灸院 春日漢方

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わたしの熊本(とことん少数派の)


 先月末、28,29日と、福岡の友人と、熊本・福岡に行ってきました。
 夜は博多の飲み屋で、熊本時代の友人、6人と30年ぶりに会ってきました。




「がんばろう」の文字だけを見せて、今回は大変なことじゃったねえ。はい、お土産、と渡しつつ、「うちのほうの今治じゃあ、日本中のタオルを作っとるんよ。ただ、残念なことに、今年の分はまだ出来とらんと。おととしの分でこらえてね。」と。




わたしは40年前に熊本大学薬学部に入って、薬剤師の資格もいただいたんですが、どうも薬学部は居心地が悪くて、そこを尋ねてみようという気は乏しい。それより、「探検部」のほうが今でも懐かしい。
 一緒にいった友人は工学部ですが、彼も同じ気分らしく、熊本大学に行っても、道路を挟んだ向こうの工学地区には行こうとはしません。
 人づての話では、薬学部の建物は使えなくなるような被害はないが、とてつもなく高額な装置類が、おおかたダメになったでしょう。工学部の建物は使えなくなったものが、いくつもあるとか。

 今回、「とことん少数派の熊本」ということを考えました。

 わが熊本大学は、大学生協を学内から追い出す裁判を起こした、全国でも珍しい大学です。1960年代末の学園闘争の残務整理の仕上げに、闘争の火付け役だった熊大生協を潰すべく、施設立ち退き訴訟を起こしました。
 大学=「国」と正面から戦った生協は、大学のあるべき姿を提示して、70年代に潰れていた教養部自治会、文化部会、学園祭を再建して、常に学内に問題を提起して戦うことを止めませんでした。
 大多数の学生は、生協に加入し、生協で毎日メシを食い、教科書や家電製品を買いながらも、学内に常に問題を提起して止まない生協を疎ましく感じていました。
 しかし中に、生協の提起する問題に応えるごく少数の人間が存在しました。博多で飲んだ6人は、多少ともその活動に関わった、そのごく少数派の仲間です。

 生協追い出し裁判については、われらの入学の直前、1976年3月に第1審で、国=大学側敗訴。その後、6月に大学側が控訴。のち高裁で和解となりました。結局、学生・教員の大多数を組合員とし、年商数億円の団体を潰さねばならないほど、不法行為があったわけではない、という結論でしょう。
 



 熊本の「少数派」の歴史を考えるに、大和朝廷に逆らった熊襲の時代はおくとして、150年前の「不平士族の反乱」といわれるものに、熊本では特徴的な2つのグループが存在しました。
 当時、九州の士族層には巨大な反乱の気運不満がうっ積していましたが、特に鹿児島の西郷のグループが、数千人規模の反乱をいまにも起こすだろう、という観測が大きな期待をもって語られていました。
 そういう鹿児島の情勢に対して、熊本の2つのグループは別の反応をしています。

 1つは、「神風連」と呼ばれた集団。いまウィキペディアでみると、「神風連」は批判者からの上げつらいで、自らは「敬神党」といったようです。熊大の黒髪キャンパスのそばに桜山神社というのがあって、そこに「神風連資料館」があります。
 神風連は、鹿児島の西郷が今にも暴発しそうだという情勢を横目に見ながら、他人の反乱に便乗するのは、良くない。これは俺たちの反乱なんだからと、決起のタイミングを、なんと伝統的な占い、うけひ、とか夢占いで決定して、西南戦争の半年前に決起しています。

 明治9年10月、総勢170人で、政府の軍事拠点の熊本城に襲撃をかけたが、洋式の武装した正規軍には敵うべくもなく、7割が戦死または自刃して終わった。ある人に聞いた話で、局地的な戦闘において、兵力の30%が死傷して動けなくなると、その軍隊の戦闘は終了、ということになるそうです。それなら7割まで死ななくっても、という数字です。
 ある老人が火縄銃を持って乱に加わろうとしたところ、洋式の飛び道具はいけないと言われて、あー、とんだ若衆連に加わったものよ、と嘆いたと。また乱のリーダーたる太田黒伴男は、背中に瓦製の大きなご神像を背負っていたので、動きが悪く戦力半減だったとか。




 この反乱は、最初から軍事的な勝利なんか、いっさい念頭になかったことがよくわかります。
 また、こんな話もあります。15,16歳の兄弟が、乱に敗れて家に逃げ帰ると、母親はなんの事情があったのか何も聞かず、すぐに箪笥から白装束を出して、玄関のたたきで揃って切腹させたと。
 関ケ原以降、260年間の太平の世の間にも、武士というその場で命を捨てる集団が、維持されてきたわけですね。

 神風連の乱のテーマは、「花と散る」です。しかし、みんな花と散って、で、その後、どうなる、について未来の展望を感じさせるのが、つぎの「協同隊」です。

 
 明治10年2月、鹿児島の西郷隆盛ら総勢、1万3千人の士族が決起すると、南九州の各地からも、多い時で1万人ほどの参加があった。なかでももっとも多かったのが熊本からで、2300人。軍内では熊本隊と呼ばれたが、そこに参加した者らは、熊本人には「学校党」という集団とされた。
 これは維新後の熊本県政内の派閥の呼び名で、進歩的な「実学党」に対し、旧藩校で儒学教育に因った保守的なグループとして「学校党」といわれた。これが熊本の不平士族の多数派です。

 それに対して、まったく違う考えから西南戦争に加わったグループがあります。それが「協同隊」。旗揚げ時にはわずか40人でしたが、しだいに人数を集めて100人ほどになりました。




 協同隊の指導者は熊本県北部、荒尾生まれの郷士、宮崎八郎。彼は明治初めに上京して、中江兆民に民権論を学ぶ。県北部に植木学校を設立、フランス語を学び、ルソーの『社会契約論』を講読。
 当時、県内では農民一揆も頻発していて、彼らは一揆の指導をしていましたが、税金をまけろ、というのではなくて、「代表なくして課税なし」。村長や町長の公選制を要求していました。
 明治の初年、帝国憲法制定の20年前に、すでに今日的な憲法感覚を持って、農民運動をしていた人々がいたのを、忘れてはいけません。

 彼らは明治維新を、中途半端に終わった「市民革命」と考えていたので、西郷の反乱に際して、「西郷に日本の革命ばやらす。そののち西郷ば革命する。」という戦略を立てて、「ルソーの民約論を読み、泣いて剣を取る、 云々」という漢詩を読んで乱に加わりました。
 しかし、じっさいに乱に加わってみると、薩摩人の他国人に対する軽侮、またこの反乱になんの戦略もないことに落胆しました。それでも、薩摩軍とともに戦い、宮崎八郎は4月に戦死。26歳。
 協同隊は各地を転戦するも、しだいに追い詰められ、敵に周りを囲まれ弾薬、食料も尽きて万事休す。それでは皆で自害するか?という話になったとき、国際法では、白旗を掲げて投降してきたものは、戦時捕虜として生命を保護しないといけないのだ、と主張するものがいて、その主張に従い投降しました。




 市民革命でできた「近代国家」は、市民に兵役の義務があるとします。しかし戦争は勝ったり負けたりするもの。戦に負けて捕虜となっても、その者の生命と名誉は保障されました。互いの捕虜を尊重しあうことが、自分が捕虜になったときの、身の安全の担保になります。
 こういう戦争に対する「市民感覚」を養わないまま、向えたのが50年後の大戦で、弾薬も食料も尽き果てても投降できず、300万の死者を出しました。

 26歳で夭死した八郎の下に数人の弟がいて、それぞれ兄の跡を継いだ社会運動に挺身しました。中で有名なのが、末弟の寅蔵(号 滔天)。
 彼は明治の日本での革命に、当面の展望を見いだせず、東アジアの大国、清国の革命から手がけんと、孫文らの辛亥革命の後方支援に尽力。
 孫文は八方塞がりの中国革命を、身を挺して支援してくれた滔天を、革命の同志として敬愛し、南京の中国近代史博物館の中庭には、孫文と並んで銅像が建っているそうです。
 
  「とことん少数派の熊本」 現在にも続ている水俣病に関しても、多数派の熊大医学部に対して、最期まで患者の立場に立ち続けた、とことん少数派の原田正純先生などを取り上げるつもりでしたが、今日は、近代史の中の熊本までとします。
 
 写真は29日に訪れた大宰府庁跡。商売っ気むんむんの大宰府天満宮に対して、礎石だけを残した庁舎あと。じつにすっきりして気持ちがいいです。