昨日、昼と夜、岡本太郎のドラマ「TAROの塔」をやっと見ることができました。
私としては太郎氏よりも、お母さんの岡本かの子のほうに知識も興味も偏っており、ちょっと変な視聴者かもしれないのですが、
さすが寺島しのぶさん、その変な視聴者を満足させてくれました。
岡本太郎氏は、風刺漫画家の岡本一平、歌人・小説家の岡本かの子の間に生まれた方で、
強烈なご両親のもとに大変な子ども時代を過ごされました。・・・・・・・ということは、知識としては持っていたのですが、
やっぱりドラマで見ると凄い。
かの子が、ある日ご主人に「・・・・恋をしました。学生さんで・・・・。好きでたまりません」というと、一平は
「そんなに好きならここにおいておけばいい。」といい、びっくりな同居生活が始まるわけです。
もちろんただの下宿生ではありませんよ。・・・・大人の関係です。
たまげますけど、大正・昭和期の女流文学者のあれこれを知っていると、別にそこまで仰天の話ではないんですね、これが。
そういうことはおいといて・・・・です。
私が「ほう」と思ったのは、太郎氏がパリで絵の勉強を始め、そこにかの子が訪れた時の話。
太郎氏は、自分の絵に絶望していて、「才能がない。あなた(おかあさん)と違って僕には才能がないんです。」と絵を次々投げつけ、荒れるわけなんですが、
そこで、かの子が放ったひとこと。
「あなたは、ほかのすべての自分に絶望しなさい。そして、絵だけを描きなさい!」
ほかの女優さんだったら、この言葉どう響いたかわからないですけど、寺島さんの言葉はキました。
世の中のほとんどの人間は芸術家ではないので、<ほかのすべての自分>に絶望してはならないし、そういう自分に世間からも絶望されてはならないのですけど、
人間あれもこれもバランスよく生きるなんて土台無理なことなので、「これもダメ、あれもダメ」で絶望したからといって、それがどうした、
ほかを忘れてなにかひとつ狂ったようにやってみてから「自分はダメだ」なんて言葉を言ってみたらどうだ・・・・・・これはそうかもしれない、です。
これは、かの子その人もですけど、
やっぱり寺島さんの、自分をぎりぎりまで差し出しての演技、一種狂気を帯びた目・・・・・そういうものに因るところが大きいかもしれません。
話はとんでしまいますけど、例の携帯によるカンニング事件、
「一般社会では、自分自身の知恵・力で解決することだけでなく、(ネットによる)集合知を利用する機会も多々ある。そういう方面の能力が必要な場面もあるんじゃなかろうか。事件の善悪は別として」
みたいな意見も散見されます。私はそのこと自体に言及する気はないのですが、
やはり「己の存在すべてをかけてなにかを成し遂げるということが美しい」とか、「潔い」という感覚、・・・こういうものを持ち続けることは人間として大切なことではないのか、と思うわけです。
そういう意味において、その瞬間に自分の存在をかけるような行為・・・・演劇や演奏、またスポーツ、そういうものに憧れます。
入試もそういう場であっていいんじゃないかな、いやそうあってほしい、と思うのですが・・・・。
どこか「狂う」なら、そういう一瞬にかけるような「もの狂ひ」をしたいと思うのは、すでに私がおかしいのかもしれません(笑)。
