別に我慢できないとか気が狂いそうというほどではありませんけど、かなり暑くなりました。
昼頃てくてく20分ほど歩いておりましたら、頭が熱い、くらくらきました。あいにく日傘も帽子も携行しておらず・・・。なぜかカバンに入っていた日本手ぬぐいで姉さんかぶり。
ヘンな格好だろうがなんだろうがかまってる場合じゃないです。
朝ワイドショーで「昨日商店街でパンツ一枚で歩いているおじさん見ましたよ~。気持ちはわかるし、なんかうらやましかった」と言ってましたけど、いよいよとなった場合、街中で暑さのため倒れるのと、パンツ一枚で闊歩するのと、どちらが世間の迷惑かは・・・おのずと知れております。
パンツ一枚はムリとしても、せめて腰パンくらいはよくないか~・・と思ってしまう私はすでにオワッてます。とにかく風通しのいい素材、形状のものを着るのが一番でありましょう。


さて、一昨日はチェロパーティーがあり、昨日は子どものバイオリンについて行ってあまりのひどさにめまいを起こしておりましたが、そうこうしているうちに今日は自分のレッスン日でした(汗)・・・松本先生の。
弾いてない弾いてない・・・どうしましょう・・・というわけで、子どもが学校に行ったあと練習です。むこう一月以上ひとりっきりで練習する日はもうありませんから、たとえレッスン日でなくても大事な練習時間。
さてなにをやったものか・・・なぜか地味に片手ずつメトロノームできっちりやりました(笑)。ここのところ速い練習をやってなかったので、普通のスピードで弾けるのかどうかがまず不安。メトロノームでやっと取り戻した次第・・・・(そんな状態でレッスン受けるな、ということですが)。

それでもたぶん、予選で弾いたくらいには弾けたと思うので、まあなんとか弾けるようにはなってきたんだと思います。講評で審査員全員に書かれた「高音部のメロディー」に関しても、「ここで聴く分には気にならない」と言われましたので、ここ数週間の声部分解の地味練は無駄ではなかったかもしれません。
・・・・で、ここからですね、曲を弾くということは。
静けさ、闇、光、祈り、歌、つぶやき、語り、もがき、焦燥、苦しみ・・・などなどをもっと感じていかないといけないですね、たしかに。
シューマンの曲は「楽譜に書かれていることの何倍も何十倍も(演奏者に)気持ちがないと、表現が難しいと思う」と言われました。また、「たぶんだれかに語りかけたかった人だと思うから、自分のために弾くというよりは、もっとだれかに向かって語りかけていったほうがいいんじゃないかな」とも。

・・・・なるほど・・・

ちょっと話がずれてしまうのですけど、私がずっと前から感じていることがあります。
「萩原朔太郎とシューマンはどこか似ている」・・・これはあくまでもカンでしかないのですけど。
たとえば二人とも、当時の雑誌などに詩論や音楽論をおおいに書いた、ある意味「論客」でありますけど、一方でそれぞれ画期的な詩や音楽を発表しています。
男性的ともいえる論文の一方で、作品そのものは、どこか言いさしたままのような、病んだ様な部分があって、誰かの歌ではないけど「♪言葉(音?)にできない」もどかしさのようなものがつきまといます。
本来詩人は「言葉」で、作曲家は「音」で表現することを生業としているわけで、そういうもどかしさがあるのはいいことなのかどうかわからないのですけど、その「書かれている以外の部分」に私自身が異様に惹かれているのはたしかなんだと思います。
ただ単に<読み手><聴き手>である場合は「惹かれる」だけでもいいと思うのですけど、<弾き手>となった以上は、「惹かれる」ものを取り込んだ上で、「誰かに語って」いかないといけないのだと思うんですよね。

余談ですけど、朔太郎も音楽好きで自分でも楽器を弾きましたし、自作の曲も残しているようです。
言葉も音も駆使した天才ふたりでありますけど、それでも表現しきれなかったもの、もどかしいままに亡くなってしまったものがあるのかもしれません。
それを一瞬の和音とか、助詞のひとつから、こちらがなにかを胸いっぱいに感じることから、少しずつ距離が近づいていくのかも・・・・・。


こういうことがわかったからといって、いきなり弾けるようになるもんでもないですし、わかってからのほうがつらいこともあるでしょうけど、こういうところから先へ行ってみたい・・・とは思っています。