考えてみれば、昨年の今頃は四十肩だか五十肩だかで大変でした。
当時はそれほどヒドイこととは思わなかったのですが、今にしてみれば、水平以上に腕が上がらないし、背中には回らない、しかも痛くて明け方目が覚める、というわけで、よくもあの状態で1年近くもったな・・・と。
「治療してもしなくても、いつかは治る」みたいことをきいていたので放置してましたら、いつの間にか治ってました。

早い話が自然治癒は「老いの一里塚」ということでありますが・・・(汗)

ピアノの方はどうか知りませんが、弦楽器の方がたではその間演奏活動ができなかったという話もきいたことがありますので、プロの方にとっては「ほっとけばいつか治る」という悠長なものではないのかもしれません。

肩には参りましたし、指も場合によっては故障を起こすことがあって、まあいろいろあるわけなんですけど、ピアノを再開した10年くらい前とくらべるとそれでも、全体としてみれば身体的にはいい方向にきているような気がします。
かなりの年齢でも、再開して1年弱で信じられないくらいテクニック全開で弾かれる方がいらっしゃいますが、これはもう資質の差、あるいは子どもの頃のトレーニングの違いということで、私なんかとは比較しようもありません。
どうしても技術上、「指が動く」ことに意識がいってしまうのですけど、そのほか掌の柔軟性があがると、楽になることがいくつかあるんだなあ・・ということを今さらながら体感しています。

身体的な面はそれでも、ある程度進歩が感じられますけど、耳のトレーニングはなかなか・・・

筋肉はトレーニングでそこそこは維持できるのだと思うのですけど、感覚器はそれでなくても年齢とともにどんどん衰退の一路をたどるというわけで、ある意味この「鈍さ」が、加齢による人間の「丸さ」などというものにも関係しているのでは、と思うわけです。
音のことすべて自分で気づくのは無理としても、弾いてて「あれ?」と思うところがあれば、先生なり周囲の人から指摘されたとき「あ、やっぱり」と思えるかもしれませんが(それが態度として素直に出るかどうかは別問題ですが・・)、自分で聴こえてなければ、なんでそんなことを言われるのかもわからない。
大人はたくさんこれまで音楽を聴いてて、耳が肥えているからそこは大丈夫なのでは・・とつい思いたくもなりますが、どうやらそういうもんでもないです。
音というのは、たまたま「耳」が自分の発した音を拾うので「聴こえる」ような気がするのですけど、実はこれは自分の顔を自分で見るくらい難しいことだと思うんですよね。
よく指導者や聴衆にあたる人が「ここをよく聴いて。聴いてないからわからないんじゃないの?」みたいなことを言いますけど、じゃあそういうご本人たちは自分で弾くときはそのようにすべて聴き取れるかというとそういうもんでもないはずです。
・・・他人の顔は見える、他人の演奏は聴こえる・・・

自分の音を聴くのはほんとに難しいです。自分の「声」を客観的に聴くほどの難しさではないかもしれませんが、それに近いものがあります。
これができるには「弾く人」と「聴く人」を兼ね備えなければならないわけなんですけど、それができるようにはどのようなトレーニングがいるか・・、どういう精神状態を保つか・・このあたりなんでしょうね、課題は。

はたしてこの「自分の音を聴く」ということが、「意識すること」「努力すること」だけで、向上していくものなのかどうか・・・ということを最近よく考えます。
さらに、自分で自分自身のモニターがどのくらいできるものなのだろうか・・とも。

練習の過程としては、もちろん録音を聴くということはあるわけですけど、実際ステージで弾きながら同時進行でやるわけです、これを。考えただけで簡単ことではないです。でも「音が聴けてない」のひとことで済まされることが結構多いし、私自身も他人に対してはそういう感想を持つことがあります。
でも自分に振り返って考えてみると、こんなオソロシイほど重要で難しいことを、細かい方法も示すことなく「よく聴いて」ですませられるものなのだろうか、じゃああなたはどうやって自分の音を聴いているんですか・・といわれると、「・・・・」となってしまうことを、子どもたちに強要できるもんだろうか、と悩み中。