ここ2日ばかり、ポゴレリチのブラームスの間奏曲等のCDを聴いています。
1992年の録音なのでかなり若いころのものですけど、やはりというべきか、遅い演奏が多いです。
ポゴレリチの演奏(特に遅いもの)を聴いているといつも感動とかそういうものとは別次元の不思議な気持ちにとらわれるのですが、それはどんなものかというと・・・ひとつひとつの星を見ていて、ああこれは赤っぽいああこれは明るいと味わって見えていたのが実は星座を構成していたんだ・・という驚きに近い感覚。
以前それはショパンソナタの3番を聴いていてその感じが強かったのですが、今回ブラームスの作品(作品117や118)を聴いていて似たような思いを抱きました。

私自身は感覚的にしかとらえられないのですが、ショパンの晩年の作品、ブラームスの晩年の作品は和声的に熟した、調性崩壊寸前の要素を含んでいると言われることがあります。
以前、シェーンベルクの「6つのピアノ小品 作品19」と、ブラームスの「間奏曲 作品119」を並べて演奏したコンサート(これは地元に関係のあるピアニストの方のもの)を聴いたことがあります。演奏者の明らかな意図の下に並べられたそれらは、ブラームスらしい(といわれる)情緒を抑えて分析的に演奏され、聴いているほうにも次の時代へのなにかを感じさせるものでした。そういえば、シェーンベルクはブラームスのピアノ四重奏第1番を管弦楽に編曲していますが、これがまた原曲を聴きなれた耳にはちょっと不思議な感じがします。

ショパンの晩年の作品(今私が弾いているチェロソナタもそのひとつです)も、私などにはとても分析のしようもない、いったいなにが起きているのはわからないような複雑な要素があり、それがどういう形でどんな作曲家にひきつがれていったのかは、とても興味のあるところです。思い起こせば、上記の演奏会ではドビュッシーの「前奏曲第2集」と、ショパンの「ソナタ3番」が後半のプログラムでした。


ただ勝手にいろいろな曲を弾いてきた私ですけど、ここへきて、調性をぎりぎり保っているような曲がセンサーにひっかかりだし(笑)、そのとき思い出したのがポゴレリチの演奏であり、以前地元で聴いた演奏会。
でまた「星」の話なんですけど、星(恒星)ひとつひとつは実はおそろしいほど離れていて実際はなんの脈絡もないわけで、地上から見る人間が勝手にセンで結んで「星座」とかなんとか言って楽しんでいるわけですよね。
「音」というのは、作曲者が意図をもってつなぎ合わせ、連続したものとし、さらには曲として織り上げるわけですけど、その「ひとつひとつの音」に立ち返った場合、「音そのもの」はそうつなぎ合わされることを望んでいたのか?実は偶然のできごとでつながりを持ってしまっただけではないのか・・・ポゴレリチの演奏を聴くとどうもそういうところへ思いが至ります。

・・・演奏の好き嫌い、良し悪しはまた別の議論として、こういうあたりが抗し難い引力であることは確か・・・