ピアノを演奏する時のいわゆる「脱力」というものがいかに難しいことかというのは、一流のピアニストでもそれを完全にモノにするのに「○年かかった」などという話によくあらわれていると思う。

単に「脱力」といっても、たとえば「ちょうちょ」レベルを弾くときと、「ショパンのエチュード」を弾く時ではかなり話が変わってくる。
だいたい音が多ければ多いほど、曲が速ければ速いほど、ややこしければややこしいほど、力が入るのは当たり前のこと。が、逆に、力が抜けてないとそういう曲が弾けないのも当たり前のことなので、どちらが卵か鶏か・・という問題にぶつかることになる。

これは・・・
習い始めたときから、毎日毎日気をつけていけば、難易度があがってきてもそう苦労することなく、できるようになるはずなのではないか・・・

またまた娘の話で恐縮なのだが、ドからソの往復レベルの彼女にしても、すでに「力の抜けた、いい音」と「ただ押さえているだけの響かない音」ははっきり違いがあるのであって、あまり練習していない音列をムリヤリ速く弾こうなどと張り切ると、はっきり言って「しょうもない音」を出す。
もちろん指を速く動かしたいと思うのは悪いことではないので、この行為自体を止めはしないのだが、「ちゃんと鳴らす音」と「練習のためにただ弾いてみた音」というのは自分のなかではちゃんと区別してほしいと思っている。

私は、これまでまともにこういう時期の子に付き合ったことがなく(上の子は、この時期はグループレッスンだったし、当時自宅のピアノは電子ピアノだった)、「入門期は、鍵盤の位置が分かって、歌でも歌って音楽に親しめばいいのであろう」と思っていたので、下も最初は放っていたのだが、
考えてみれば、弦楽器などは、指のポジションもだけれど、姿勢や弓の引き方や角度、そういうことをこの時期に徹底するのであって、やはり一音一音と辛抱強くつきあっていく姿勢は、音の少ないこの時期こそ大切であろう・・と心を入れ替えて、毎日付き合っている次第。
幸い娘も嫌がらずにやっているので、なんとか今のところ続いている。

逆にいうと、大人になってからでも、この過程を辛抱強くやり直せば、だんだんと脱力が出来ていくはずなのだと思うのだが、やっぱり曲を弾くことの方が面白いのでそちらはどうしてもおろそかになってしまう。
脱力以前の問題なのかもしれないのだが、私はショパンのエチュードは1曲たりともまともに弾けない。いまだにただ音を追っているだけのレベルだ。音楽とは言えないなあ・・と思うので、人前ではあまり弾きたくない。
バッハの平均律も、「立つべき音」がくぐもったままになってしまうので、これも曲にならない。
曲が難しくなればなるほど、「ツケ」は大きくなっていくので、自然練習時間も増える。でも、このレベルに挑戦していかないと、自分がそこそこ弾けるような気になってサボるのも目にみえている。

・・・・ということをいつも考えていてふと思う。
「いったいなんのためにそんなに必死なのか?」