あるご縁で、ホロヴィッツの1983年東京公演のTV録画をいただくことができた。
ひとことでいうと、「聴いて(見て)よかった!」。
1983年6月というと私は大学1年でテレビのない環境だったこともあり、さっぱり演奏についての記憶がない。
プログラムは
ベートーベン 「ピアノ・ソナタ 作品101」
シューマン 「謝肉祭」
ショパン 「幻想ポロネーズ」
ショパン 「エチュード 10-8、25-10、25-7」
ショパン 「英雄ポロネーズ」
ベートーベンの冒頭、いきなり「この曲はこういう曲だったんだ!」というインスピレーションをもらったように思ったが、やはり評判どおりミスが多い。
ホロヴィッツと並べていうのはまったく恐れ多いことなのだが、自分にも覚えのあるようなこと・・・・
少量のアルコールを入れて弾いてしまったときによくあることだが、左右の手の打鍵のタイミングが微妙にずれたり、そんな気はまったくないのにオクターブを弾こうとしてことごとく隣の音まで押さえて音が濁ったり、細かいパッセージで指がからまったり・・といった、感覚的には1~2ミリ、コンマ何秒かのズレだ。
このときホロヴィッツは睡眠導入剤だか、向精神薬の処方だかがうまくいっておらず、大変体調が悪かったといわれている。
それにもかかわらず・・というとさらに失礼な感じもするが、
音楽的にまったく流れが損なわれないのには感動した。自分でも指の不調は感じているはずなのに、途中で雑になることなく、真摯に自分の世界を展開している。
指が動きまくって「どうだ!」といわんばかりの若い時代ももちろんあったとは思うのだけれど、インタビューでもいっていた通りにホロヴィッツはやはり「自分のために音楽やっている」。
公演としては失敗・・・との思いは早い時間からあったと思うのだけど、弾き始めた以上は、作曲家と自分に恥じない演奏を志す。聴きながら胸が痛くなった。
休憩時間のインタビューはもちろん好意的なものを取り上げていたのだとは思うのだが、
チェリスト堤氏、ピアニスト神谷氏、それぞれ表現は違うのだけれど「音楽が自然で、生きている」といったことを述べておられた。まったく同感。
・・そして、もっとも気になっていた吉田秀和氏のインタビューだが・・・・
なぜ気になっていたかといえば、私は日頃吉田氏の評論を愛読しているのだが、彼の「ひびわれた骨董」という表現によってこの公演の評価が確定したようになっており、果たしてそれはどういう雰囲気で語られたものなのかが長年「のどにささった骨」だったからだ。
果たしてですね・・
吉田氏は穏やかに語っておられ、
「・・・こういうものにたとえるのはイヤなんだけど・・」と一瞬のためらいをみせたあと、
「彼の演奏はもはや骨董の領域にはいっていて、好きな人はいくらでもお金をだす、イヤな人は聴かない、というものになってますね。
それにしても、もっと早く聴きたかったなあ・・・骨董っていっても<ひび割れた骨董>ってところだねえ」
なんとなくわかった気がした。
吉田氏はディスクを聴いては「実演に接してみないとわからないのだけど・・」と言いつつ、気にいったものは熱く熱く<すばらしい!>と書かれる。
その後実演に接して、自分がディスクで感じたものと違いすぎるとその落胆は激しく
「以前、私の書いたものを読んでディスクを買われた方がおられたらほんとに申しわけない・・・私もガッカリしました」みたいなことを書かれるのだ。
たぶん、吉田氏は心底ガッカリされたのだと思う、期待が大きすぎたから。
でも私「骨董」という表現に一抹の救いを感じましたね。
今まではほんとに「なんてひどい表現」と思っていたのだが、彼の口からその言葉が発せられた時の表情やら、語感が、なんかちょっと好ましかった。
「骨董って、ちょっとやそっとのキズでは価値の落ちないものなのよ。時を超えて、見る人(聴く人)の感興を呼び起こすし、不思議な力も宿してる。でも、キズのないピカピカも見ておきたかったなあ・・ちょっと残念」
こういうのは私の勝手な解釈かもしれないが・・。
彼独特の言葉の使い方と落胆の表現がないまぜになった表現ではなかったろうか。
インタビューのすべてが流されたとも限らないし。
私自身、実演ならぬ実録に接して大変良かったと思っている。
ひとことでいうと、「聴いて(見て)よかった!」。
1983年6月というと私は大学1年でテレビのない環境だったこともあり、さっぱり演奏についての記憶がない。
プログラムは
ベートーベン 「ピアノ・ソナタ 作品101」
シューマン 「謝肉祭」
ショパン 「幻想ポロネーズ」
ショパン 「エチュード 10-8、25-10、25-7」
ショパン 「英雄ポロネーズ」
ベートーベンの冒頭、いきなり「この曲はこういう曲だったんだ!」というインスピレーションをもらったように思ったが、やはり評判どおりミスが多い。
ホロヴィッツと並べていうのはまったく恐れ多いことなのだが、自分にも覚えのあるようなこと・・・・
少量のアルコールを入れて弾いてしまったときによくあることだが、左右の手の打鍵のタイミングが微妙にずれたり、そんな気はまったくないのにオクターブを弾こうとしてことごとく隣の音まで押さえて音が濁ったり、細かいパッセージで指がからまったり・・といった、感覚的には1~2ミリ、コンマ何秒かのズレだ。
このときホロヴィッツは睡眠導入剤だか、向精神薬の処方だかがうまくいっておらず、大変体調が悪かったといわれている。
それにもかかわらず・・というとさらに失礼な感じもするが、
音楽的にまったく流れが損なわれないのには感動した。自分でも指の不調は感じているはずなのに、途中で雑になることなく、真摯に自分の世界を展開している。
指が動きまくって「どうだ!」といわんばかりの若い時代ももちろんあったとは思うのだけれど、インタビューでもいっていた通りにホロヴィッツはやはり「自分のために音楽やっている」。
公演としては失敗・・・との思いは早い時間からあったと思うのだけど、弾き始めた以上は、作曲家と自分に恥じない演奏を志す。聴きながら胸が痛くなった。
休憩時間のインタビューはもちろん好意的なものを取り上げていたのだとは思うのだが、
チェリスト堤氏、ピアニスト神谷氏、それぞれ表現は違うのだけれど「音楽が自然で、生きている」といったことを述べておられた。まったく同感。
・・そして、もっとも気になっていた吉田秀和氏のインタビューだが・・・・
なぜ気になっていたかといえば、私は日頃吉田氏の評論を愛読しているのだが、彼の「ひびわれた骨董」という表現によってこの公演の評価が確定したようになっており、果たしてそれはどういう雰囲気で語られたものなのかが長年「のどにささった骨」だったからだ。
果たしてですね・・
吉田氏は穏やかに語っておられ、
「・・・こういうものにたとえるのはイヤなんだけど・・」と一瞬のためらいをみせたあと、
「彼の演奏はもはや骨董の領域にはいっていて、好きな人はいくらでもお金をだす、イヤな人は聴かない、というものになってますね。
それにしても、もっと早く聴きたかったなあ・・・骨董っていっても<ひび割れた骨董>ってところだねえ」
なんとなくわかった気がした。
吉田氏はディスクを聴いては「実演に接してみないとわからないのだけど・・」と言いつつ、気にいったものは熱く熱く<すばらしい!>と書かれる。
その後実演に接して、自分がディスクで感じたものと違いすぎるとその落胆は激しく
「以前、私の書いたものを読んでディスクを買われた方がおられたらほんとに申しわけない・・・私もガッカリしました」みたいなことを書かれるのだ。
たぶん、吉田氏は心底ガッカリされたのだと思う、期待が大きすぎたから。
でも私「骨董」という表現に一抹の救いを感じましたね。
今まではほんとに「なんてひどい表現」と思っていたのだが、彼の口からその言葉が発せられた時の表情やら、語感が、なんかちょっと好ましかった。
「骨董って、ちょっとやそっとのキズでは価値の落ちないものなのよ。時を超えて、見る人(聴く人)の感興を呼び起こすし、不思議な力も宿してる。でも、キズのないピカピカも見ておきたかったなあ・・ちょっと残念」
こういうのは私の勝手な解釈かもしれないが・・。
彼独特の言葉の使い方と落胆の表現がないまぜになった表現ではなかったろうか。
インタビューのすべてが流されたとも限らないし。
私自身、実演ならぬ実録に接して大変良かったと思っている。
