カツァリスのリサイタル録画をテレビでみた。プログラムは以下。


 - シプリアン・カツァリス ピアノ・リサイタル -    
                              
「歌曲集“白鳥の歌”から “セレナード”」 シューベルト作曲
                              
「楽劇“トリスタンとイゾルデ”から “イゾルデの愛の死”」 
                       ワーグナー作曲
                              
「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」   バッハ作曲
                              
「おもちゃの交響曲」      レオポルト・モーツァルト作曲
「タイスのめい想曲」               マスネ作曲
                              
「“四季”から“十月 秋の歌”」    チャイコフスキー作曲
                              
「小品集から 前奏曲 作品12 第7」  プロコフィエフ作曲
                              
「“スペイン舞曲”から アンダルーサ」   グラナードス作曲
                              
「タンゴ」                  アルベニス作曲
                              
「バンジョー」              ゴットシャルク作曲
                              
              (ピアノ)シプリアン・カツァリス
                              
  ~東京・浜離宮朝日ホールで録画~ 


前半は編曲ものがズラズラと並んでて、私のようなものにはたまらないプログラムだ。
カツァリスはレコーディングにしてもベートーベン=リストの交響曲全集などがあり、ピアニストとしてはレパートリーからいっても、異色の存在。
今日の前半プログラムはシューベルトとワグナーの2曲がリストの編曲、バッハがカツァリス編曲だった。
ピアニストによっては、最初の2曲ですでにメインを張れるようなプログラム。しかも「イゾルデの愛の死」なんか弾く人によっては、それだけでおなかいっぱいで後は聴けなくなるくらい濃い曲なのだが、ここまでは結構サラっといき、バッハで大盛り上がり。

カツァリス自身の編曲ということもあってか、「ありえない」ような超高速のオクターブの飛び芸、轟々たる低音、パイプオルガンそのもののような高音ありで、視覚的にもエキサイティングだった。
続くレオポルド・モーツァルト=キャメロンの「おもちゃ交響曲」は茶目っ気たっぷり、客席を向いたり、「ピアノって楽しくてしかたないよね」スマイル炸裂の「楽しい音楽の時間」だった。

ここまで聴いて思ったのだが、ピアノという楽器を知り尽くした超絶技巧の持ち主をいうことをふまえたとしても、あまりにも軽々と弾いている。どうしたらあんなにも疲労がでないのだろうか?
しかも、そでに下がらずにどんどん続けて弾く。挨拶もそこそこに。

編曲モノということを割り引いても、ライブハウス的楽しさやいい意味での軽さがあるのはなぜなのか?
ひとつ思ったのは、メインの旋律以外の部分が異様に軽く弱音で弾かれることがあるということ。
即興演奏のようだ(笑)。
・・・とここまで書いて思ったのだが、カツァリスのCDにはそれが即興なのかどうかは別として、楽譜にない音が結構入っている。
もしかすると、いったん楽譜を自分にとりこんだあとは、自分の中から発信しているのかもしれない。なので、コントラストも自在に、あるときは極端につけているのかもしれない。
これって、人の文書を読み上げる時は一言一句丁寧に再現しようとするけど、自分で書いたものは、言いまわしをかえたり、声の調子で強調部分を作ろうとするのと同じ?
同じじゃないかもしれないけど、もしそうだとしたら、疲れもあまり出ないかもしれない。「やらされてる仕事」は大変に感じるけど、「自分でやりたいこと」には時を忘れたりもするし・・・。

もちろんカツァリスのようなわけにはいかないけど、自分のものになるくらいテッテー的に曲を取り込み、間違っても即興でつなげられるくらいにすれば、少しは疲労度が減るかもしれない。
いすれにしろ、(暗譜にしろ)楽譜を追っている状態では、「楽しい音楽の時間」にはならないということだ。