朝から秋らしくすがすがしい日和だったので、
ひさしぶりに公園に出かけた。

10時半に行ったのだが、なぜかうちが一番乗り。しばらくは私たち母娘だけだった。
今は微妙な季節で、夏の名残の虫たちは多いし、紅葉もまだだしで、風情はあまりないのだが、子供にはそういうことはあまり関係ないようだ。

よく「子供は自然に親しませて」というし、そのこと自体に私は異存はない。
私自身も子供たちを連れて戸外へ出かけるのは楽しみのひとつだし、山の中で暮らしたいと思うこともある(現実にはまったく無理なのだけれど)。
・・なのだが、自分の子供のころの記憶をたどると、「自然」って楽しかったけなあ?と思う。

私の育ったのは、造成地に作られた団地で、あちこちに雑木林が半端に残っているところであった。
男の子たちはどうだったか知らないが、そういう「手入れのされていない半端な自然」地域には入ったことがなく、またなんとなく怖い気もして、まったく遊び場ではなかった。
何年か前、実家の近くの雑木林から、終戦時米軍が放っていったらしい爆弾が掘り起こされたことがあったので、ある意味近づかなくて正解だったかもしれない。

私の親はそう数多かったわけではないが、あちこち旅行に連れていってくれた。
そのこと自体には大変感謝しているのだが、
どうも「風光明媚」な観光地は苦手で、おもしろいと思ったこともなく、
まして歴史的建物の並ぶところもかなり退屈した。ただ、阿蘇山の火口と鳥取砂丘は別だった。
いつだったか、テレビのトーク番組で、故松田優作夫人が、ご主人亡き後、苦しい家計の中から貯金をして子供たちを沖縄に連れていったのに、子供はホテルの部屋でゲームばかりしており、母親としてはプッツン。
「ほんとにあんたたちが行きたいと思うまで旅行はしない」と断言。その後、旅行をしたのは10年後(?あるいはもっとあとだったかも)といっておられた。

親としては、ポーズでもいいから楽しんでくれることをつい期待してしまうのだが、
たぶん子供時代の楽しみかたは大人とはかなり違うのだと思う。
おそらく・・・刺激過多なのだ。
今日たまたまある本を読んでいて、「音楽に敏感な子供たちにとって、オーケストラの音量は苦痛であることもあるし、その内容の大きさ深さを受け止めきれずに混乱してしまうことがある」という部分に行き当たったのだが、そういうこともあるはずだと思った。
よく旅行すると親に「○○も○○も○○も見たよね、○○はどうだったよね」と言われたりしたし、私自身も演奏会のあとなどに子供に「どうだった?」とついきいてしまったりするのだが、大人でもあまりにも多くの印象を整理しきれないのに、子供にはより無理というものだ。

だからといって、旅行や演奏会体験が無駄だとはまったく思わない。
もし、京都に行って10箇所のお寺を見たとして、子供がどこへ行ったかもきれいさっぱり忘れてしまったとしても、「元がとれなかった」(爆)などと思うのはやめようと思う。
もしかしたら、屋根の一部だけを鮮やかに覚えていることもあるかもしれないし、名前はわからないけど庭に咲いていた花のことが脳のどこかにひっかかっているかもしれないし、些細でつまらないことをあとでふっと思い出すかもしれない。

そろそろ「昔の細かいことばかり」を思い出してしまうお年頃にさしかかっているのか、今の私自身がそうだからだ。
そしてそのような、子供の時分には「おもしろくもなく退屈」と思った旅行地のことを、楽しく、時には鮮やかに思い出すことがあるからだ。