考えてみたら、まったくヒマな土曜日というのはほぼ一ヶ月ぶり。
ほとんど、ここのところ毎週ピアノがらみの用事があったのだった。

今日もとりあえずピアノの練習はしたが、軽く掃除と洗濯をした以外は、
ほとんどすわっては意識混濁(笑)、目覚めては飲んだり食べたり、というまことにダレた状態で、これではいけないと、たまりにたまった郵便物の整理にかかった。
これがまた、ややこしい書類になると(ほとんど主人がらみですね)また意識混濁・・
なにか音楽でもかけようと思った。朝一でクライバーのベートーベンの5&7番でとばしたあとだったので、さすがに少しおとなしめを・・と思ったが、おとなしすぎると寝るし・・というわけで、リレーコンサートのCDを再び(笑)。
今日はBGMにするのが目的なので、音量をかなりしぼって、なるべく音楽そのものには意識がいかないようにして聴いた。
こうすると、「流れている」感じとピアノの音色だけで、ほどほどの刺激になる。
おもしろかったのは、調子よくミスのない演奏が続くと(ほんとに音量小さいですから)やはりちょっと眠気が差すのだが、
たま~に、弾き直しがあったり、空白の一瞬があったりすると、ハッと目が覚める(笑)。
何回か聴いてわかっている演奏なのに「ハッ」とする。そして目が覚める。
おかげで、山積みの書類はほぼ片付いた(笑)。

昨日はあるピアニストのべートーベンのソナタのCDを聴いたのだが、
これが、「表現しようのないテンポの揺れ」と「思いがけない間」で船酔い状態になった。
このピアニストはショパンでもこのような演奏をするのだけれど、
こちらの方は結構私は気に入っているのだ。
だがべートーベンだと、たとえば歩く歩道上でこちらが普通に歩こうとしているのに、足下の速度が一定でなくなったり、止まったり速くなったり、なんだか弄ばれているような感じがしてしまい、船酔いだ。
でも、この「弄ばれ感」によっていやおうなく「聴かされる」ことにもなる。
文学でも、わざわざわかりにくい文体でもって、読者を思考・思索の世界に引き込もうとする手法があるけれども、それと似た感じがしなくもない。

私は日頃、音楽というのは「流れを止めるようなことだけは慎まなければならない」と思い、たとえミスや暗譜落ちがあっても、聴き手をなんとか曲の終わりまでスムーズに誘わなければならないと心がけているのだが、
音楽が人間の意識の深い部分を投影したものであるとすると、
すべてが調子よく流れるわけでもなく、途絶や失速があって当然と思えないこともない。
そういう意味では、シューマンの楽曲へのアプローチなどはもっと柔軟な部分があってもいいのかも、とも思う。

ある前衛芸術家の「ハプニング」ではないが、「あれっ」とか「おっ」と思う一瞬に弾き手の提供する時間と同化する体験も面白いかもしれない。
いつもいつもそのような演奏を聴きたいとは思わないが、「間違ったのかと思ったら、実は計算ずく」で、やられた・・と思うのも悪くない。

たぶんそのような演奏の前では、コンサートで居眠りすることもできないし、
カーステレオで流していたなら、眠気覚ましになるかもしれず、
これは、音楽鑑賞以外の別の活用方法もあるかもしれないのだ(逃)。