ひさしぶりにシューマンから離れて、いろいろ少しずつ弾いてみているのだが、
いかにあの曲がこんがらがったややこしい曲だったかがわかる。

本選でいただいたコメントのなかに「指がよく動く方ですね・・。もう少し音に追われ続けずにすむような曲を弾かれたら・・」みたいなものがあったのだが、
今の私がもし審査員だったら、まったく同じことを書く(爆)。
構成についてもいまひとつ必然性が感じられないところもあるし、
音の多さにしても「この音って絶対必要?」と考えるとそうでもないところもある。
「プレスト・パショナート」には、最後の方に弾きにくくてたまらないところがあり、それはたぶん演奏時間の関係上弾かずに済むはず・・・だったのだが、
どういうわけか本選ではそこまで弾くことになってしまい、しかたなく適当に音を抜いて弾いた(殴)。たぶん聴いている方には気付かれなかったと思う。

ところでシューマンと非常にかかわりの深いメンデルスゾーンを弾くと、これと反対の感想が湧いてしまう。
聴いていると大変美しいし、流麗で天才だなあ・・と思うのだが、
弾くと「この普通の音階と普通の和音なんとかならんか・・」と延々続くノーマルな音型に物足りなさを感じることがある。なんか足したくなる。
弾くとほんとにそう思うのだが、聴くとそうでもない。
・・これって実はものすごいことなのではないだろうか?
少なくとも「弾くとものすごいのに、聴くとそうでもない」よりはすごいことのような気がする。

シューマンを弾いたあとで、ショパンを弾くとこれまた驚く。
ムダがいっさいない。完成されすぎていて怖い。
楽曲が完璧だということは演奏者の妥協もいっさい許されないということだ。(かつて吉田秀和氏もそういったことを書かれていた)
ショパンは旋律自体が親しみやすいがゆえに、このあたりが難しいところなのだが、本人も結構そういう人物だったのではないだろうか?
社交界ではおしゃれでユーモアあふれるショパンは大人気だったというが、
音楽上では、彼はおそらく誰かのマネをしようとも誰かの意志をつごうとも思わず、独立峰だったのだと思う。
私などは、もともとショパンが好きでたまらないという人間ではないだけに、
楽譜を見ると、研ぎ澄まされた感性と意志が恐ろしくなり、逃げ出したくなる。

なんだか、シューマンをくさしたような内容になってしまったが、
人の心の深い部分、整理しようのない次元にまで下りていって音楽をかいた
作曲家として、
私はたとえようもなく彼の音楽を愛しているし、これからも弾いていきたいと思っている。

「この夏は、シューマンの曲とともに過ごせて幸せだった」と涼しくなった今日、しみじみ思う。