1年くらい前、ふと思いたってドビュッシーの『亜麻色の髪の乙女』を弾いてみた。

弾く前のイメージは、「明るい光の中で少女(たぶん10歳前後)が遊んでいて、髪が風にたなびいている」
というきわめてかわいらしく、さわやかなものだった。
それが、練習しているうちにいつのまにか、イメージの中の「少女」は「20歳くらいの娘さん」になり、
「遊んでいた」のが「ベンチで読書」になり、どういうわけか「その近くに男性がすわっているの図」になってしまった。
しかも、男性は女性を見ている。髪のまとわりつく耳からうなじ付近をジトッ、と。

「いけない、いけない・・・これは私のモウソウだ。ほんとは清純でかわいらしい・・」
といくら思ってみてもムダで、官能度は増すばかりだった。
最後は、「このエロおやじ!」とモウソウの中の男性に毒づいて、弾くのをやめた。

今日、たまたま雑誌をみていたら、青柳いづみこさんが、
<ドビュッシーとの散歩 第1回 亜麻色の髪の乙女>というタイトルでエッセーを書いておられた。
それによると『亜麻色の髪の乙女』というタイトルのもとになったのは、高踏派の詩人ルコント・ド・リールの同名の詩だそうだ。
20歳のころ、ドビュッシーはこの詩にもとづく歌曲を書き、年上の恋人だった歌姫にささげているとのこと。

肝心なのはここからだ。(以下、エッセーより。省略等あり)

「・・・・・ドビュッシーはとにかく髪フェチだった。テキストに<髪>というひと文字が出てくると、異様に燃えるのである」、

『髪』という歌曲においては<その髪を愛撫していたら、それがぼくの髪になっていたのさ>というくだりで、
「全音音階のねっとりとした響きをひたすら上昇させ、むせかえるような官能的な雰囲気を演出している」

「オペラ『ペレアスとメリザンド』でも、若い王子のペレアスが、兄嫁メリザンドの長い長い髪を愛撫するシーンを、
舌なめずるようなタッチで延々と描きこんでいる」

(また、ある女性ピアニストがドビュッシーの前でドキドキしながら演奏を終え、感想を求めたところ)
ドビュッシー先生、<ごめんなさい、あなたの髪があまりに美しくてピアノを聴いていませんでした>と告白したそうな。

「『亜麻色の髪の乙女』は、こんな作曲者のエピソードには知らんぷりして、
とても清純でひっそりしたたたずまいの作品である」



青柳先生、私もう『亜麻色の髪の乙女』だけで、おなかいっぱいです。
たぶん、『髪』だの『ぺレアスとメリザンド』だの聴いたら、入院だと思います。