笑わないできいてほしい・・
今、私は<静けさ>について考えています。
考えなきゃわからないほど、私の生活が喧騒にミチミチているということです。
<博士の愛した数式>のなかで、博士はつぶやく。
「ああ、静かだ」
どういうときにつぶやくかというと、数学の懸賞問題が解け、郵送する前に見直しているような時にだ。
これと似たものをどこかで目にしたと思ったら、ピアニスト舘野泉さんのドキュメンタリーでだった。
病により左手のみのピアニストとなった舘野さんが、バッハ=ブラームスの「左手のためのシャコンヌ」を自宅で弾く。
弾き終わったあと、余韻と静寂が空間に満ちる。
「ああ、いい気持ちだ」
偶然というべきかどうか、
博士のほうも、交通事故による障害で、記憶が不自由(80分しかもたない)になっている。
死の淵をのぞく経験をした人間が、「永遠の」と形容されるような真実や芸術に全身全霊をささげる。
余人にはうかがい知ることのできない崇高さ。想像することしかできない境地だ。
今は(永遠にかもしれないが)、こういう境地はわたしの中にはない。
これと同列の話ではないとは思うのだが、音楽における強弱というものも
たんに音量の大小という問題ではなく、
境地(というのがおおげさならば心のポジション)の問題だと思っている。
たとえばピアニッシモ。
やすらぎ、悲嘆、緊張、恐怖・・・いろいろなピアニッシモがあると思う。
以前見に行った大野和士氏の公開リハーサルで(フォルテのあとのピアニッシモを)
「ここは、大きく目を見開いてより緊張した感じで」と指導されていたのが
とても印象に残っている。
譜面上は単に<ピアニッシモ>であるかもしれないが、その緊張度・温度・硬度の表現は同時に奏者にゆだねられる。
もちろん、楽譜にそって音楽にそって謙虚に奏でていくしかないとは思うが、
「こういう音、こういう表現か!」とピンとくるものが自分の中にあれば、
より表現が身近なものになると思う。
そういう意味で・・・
<静けさ>、私、課題です。
今、私は<静けさ>について考えています。
考えなきゃわからないほど、私の生活が喧騒にミチミチているということです。
<博士の愛した数式>のなかで、博士はつぶやく。
「ああ、静かだ」
どういうときにつぶやくかというと、数学の懸賞問題が解け、郵送する前に見直しているような時にだ。
これと似たものをどこかで目にしたと思ったら、ピアニスト舘野泉さんのドキュメンタリーでだった。
病により左手のみのピアニストとなった舘野さんが、バッハ=ブラームスの「左手のためのシャコンヌ」を自宅で弾く。
弾き終わったあと、余韻と静寂が空間に満ちる。
「ああ、いい気持ちだ」
偶然というべきかどうか、
博士のほうも、交通事故による障害で、記憶が不自由(80分しかもたない)になっている。
死の淵をのぞく経験をした人間が、「永遠の」と形容されるような真実や芸術に全身全霊をささげる。
余人にはうかがい知ることのできない崇高さ。想像することしかできない境地だ。
今は(永遠にかもしれないが)、こういう境地はわたしの中にはない。
これと同列の話ではないとは思うのだが、音楽における強弱というものも
たんに音量の大小という問題ではなく、
境地(というのがおおげさならば心のポジション)の問題だと思っている。
たとえばピアニッシモ。
やすらぎ、悲嘆、緊張、恐怖・・・いろいろなピアニッシモがあると思う。
以前見に行った大野和士氏の公開リハーサルで(フォルテのあとのピアニッシモを)
「ここは、大きく目を見開いてより緊張した感じで」と指導されていたのが
とても印象に残っている。
譜面上は単に<ピアニッシモ>であるかもしれないが、その緊張度・温度・硬度の表現は同時に奏者にゆだねられる。
もちろん、楽譜にそって音楽にそって謙虚に奏でていくしかないとは思うが、
「こういう音、こういう表現か!」とピンとくるものが自分の中にあれば、
より表現が身近なものになると思う。
そういう意味で・・・
<静けさ>、私、課題です。
