曲を仕上げる場合、人によってさまざまなパターンがあるとは思うのだが、
私の場合、「○月○日に人前で弾く」と決めた場合、それ以前の演奏は数日前までメチャメチャだ。
(もっとも本番がメチャメチャでないという保証はない)

イメージとしては、釘が散乱、のこクズが舞い、カンナがかけられたままの木がうち捨てられている・・・・とそういう感じだ。
それらをなんとか拾い集め、汗だくになって体裁を整え、形にする。

ただこの「工事中」の形が、曲によって若干違うのでないか、とふと思った。
これは、モーツアルトのK310を3楽章まで初めて通して弾いてみて思ったこと。

1楽章は、もうそれこそ1年あまり弾いているが、技術的な問題もさることながら、
流れ自体がつかめてないような居心地の悪さが常につきまとい、
はっきり言って絶望的。
モーツアルトは、初見でもある程度音になる。そしてだいたいどんな曲かはつかめる。
そこから先だ・・問題は。

話が変わるが、昨日今日と、いつもと違うジャンルの本を読んでいた。
「放浪の天才数学者エルデシュ」
「博士の愛した数式(コミック版)」
言い訳がましいが、私は「数学」は苦手でも、「数学者」は好きなのだ。
たくさん伝記も読んできた。
もっとも、これまたワイドショー的下心で、「もの狂い系」の人間に興味があるということだけのことなのだが。

こういう本を読んでいると、人によって思考回路とはかくも違うものかと驚く。
簡単にいうと、いつもの私は、ある事実から拡大する考え方だ。
つまり「この人物は、いまはこうだが、状況が変わったらどうなるのか。
年をとったらどうなるのか」などなど、変化することを前提とし、楽しみにしている。
「邪心演繹法」だ。
ところが、当たり前なのだが、この手の本を読むと、
「こういうことと、こういうこととが事象として存在する。では、これらを貫く真実はなにか」
・・・・ということを生涯考え続けた人間がいたことに驚く。
「真摯帰納法」だ。


ベートーベンやブラームスは作曲に時間をかけ、試行錯誤もあったときく。
こちらが曲を練習する時も、部分部分に分けて弾くことが多く、
長期間「あっちもこっちも工事中!」だ。

モーツアルトについも、これまで似たような練習方法をしていた。
だが、聴いていてもわかるとおり、たとえ、どんな長い曲でもモーツアルトの場合、
おそらく最後の音まで浮かんでから、譜面にしたのだ。
ソナタにしても、3楽章の最後の音まで含めての一筆書きのような曲なのだ。
もちろん技術的にクリアするためには、細かい練習が必須だけれども、
全体を通してみて「ピン!」ときたところから始める練習も、
またモーツアルトには必要なのだ。

その「ピン!」が、凡人たる我々が生きているうちにくるのかこないのか・・
こんなことはわかりません