正直

前半は

これ、最後まで見れるかな・・・

と思った

 

あの独特なトーン

淡々とした流れ

そして

妻の浮気現場を見ておいて

そのままって・・・

言ってる内容も

これは何になるの?

なんでこんなことを語ってるの?

 

ってな調子で・・・

 

それが

奥さんの音さんがなくなって

時折

タガログ語と

韓国語が聞こえるようになり

ドライバーが

登場してからが

あっという間だった

 

トーンは最後まで変わらないのだけど

あのセリフの読みまわしの理由とか

何よりも

浮気現場を見ておいて

そのままにしてしまったことへの悔いとか

そういうことで

前半の自分のイライラやもやもやが

解消されたからということもあるけど

 

魅力的な登場人物が増えたことが

大きいかも

ドライバーもだし

手話の女性も

そして

台湾人の女性も

素敵だった

 

不思議だったというか

ドライバー役の三浦透子さん以外・・・

セリフの言い回しが似通っていて

そういう似たトーンにしたかったのかもしれないけど

私は苦手だった

私の身の回りにはいない感じ

広島の演劇祭の関係者の女性とか

劇に出てくる他の女優さん2名とか

台湾や韓国の女優さんのしゃべり方が

はきはきというか生き生きしているから

この3人ののっぺり感が

目立っていた

ドライバーの彼女も

淡々としゃべるけど

それは彼女のキャラでもあるので

そこは気にならなかったのだけど・・・

 

演じられている劇も

ところどころセリフが

彼らの(そして見る側の)人生に

リンクするところは

しっかりはっきり分かるけど

それ以外の話が気になる

 

Wikiさんによれば

この演劇は本当にあるそうで

きっと演劇界というか

文学に精通の方は

もう当たり前の作品なのかもしれないけど

 

アントン・チェーホフの戯曲『ワーニャ伯父さん

 

だそうです

 

個人的には

タガログ語がもっと聞きたかったけど

彼の出番はすごい少なく

フィリピンからの応募もあって・・・

というやり取りはあるが

彼がフィリピン人だということは

触れられていないので(多分)

最後まで彼が何語を話しているか

何人なのか分からないままだった人も

いるのではないかと思うのだ

彼の最初のセリフ(オーディションの時)の出だしが

私の分からないタガログ語だったので

声のトーンとかで

あっフィリピンぽい!と思ったけど

言葉が違うように思えたので

巻き戻して聞き直してしまった・・・

結局この時のセリフは

微妙にしかわからなかったが

その後のセリフは

しっかり分かった

sira ulo (頭が壊れた=頭がおかしい=気がくるってる)っていうセリフも

しかと聞き取った!

彼が出てくる度に全身耳にして聞いておりました

 

あぁもっとフィリピンの人が出る作品がみたい!

と作品とは全く違うことを思ったりしていました

 

韓国語も

たまに聞き取れることに喜んだりしてたのだけど

 

そうなると

突然のフィリピン語への切り替わりとかに

気づかないまま聞き取ったりしていると

あっ!タガログだった!

とか

あっ!韓国語だった!

日本語じゃん

みたいな

面白い感覚を楽しめる作品だった

 

それは作品の中の劇が

それぞれがそれぞれの言語で話すという

不思議な作品だったから起きた現象なんだけど

あの作品の作り方も

なんでそんな作品を・・・?って

始めは疑問だった

この人バイリンガルなのか?

じゃなければ

知らない言語のセリフの間を

相手のセリフが終わったことを知るためには

結局相手の言語を勉強しないといけなくなるから

だったら

その言語のセリフを覚えてしまうのと

対して苦労は変わらないのでは?

それで見る者の苦労(舞台上の字幕を見る)がなくなるなら

覚えてしまえばいいのに・・・と

 

だけど

演じ方についてを

説明している中で

なんとなくわかったような気がしてきた

 

途中で

家福さんが辞書を引いているところがあったけど

脚本は

オーディションの段階で

各国の言語に訳されたものが作られていたのだと思うけど

それを更に練っていたのだろうか・・・

タガログ語の辞書・・・ちゃんとしたのあったかな・・・

 

でも言語に訳すとき

その訳し方ってすごく大切で

訳すときにその国の人伝わりやすいように

文化的なことも含めて訳さないと

直訳では伝わらないことが多すぎる

そういったことも考えて

全部の言語で訳すのは

すんごい労力だ・・・

 

あの作品は演劇祭で上演されるから

各国の言語がネイティブの観客も来るのだろうけど

その労力に見合う人数が来るのだろうか・・・

もうその労力を考えると

気が遠くなるのだけど

所謂名作っていう作品だから

各国、既存の脚本があったのだろう…そう思おう

 

でも

演劇中に出る字幕が

日本語が一番上だったのだよね・・・

私なら上演国の言語=観客の中で一番メジャーな言語ってことで

一番視線の上下が少なくなる一番下に配置するけどな・・・

と思ったのでありんす

 

演じる側は

自分の言葉で

もうさんざんさんざん叩きこんだ練習の中で生まれる

マジックというか

そういうのがあるだろうけど

字幕を見ながら

目線を動かしてたら

そんなマジックを見逃してしまわないだろうか

 

でも

一つの言語しか分からない状態で見ても

伝わるものがあって

そういうものが

そういう世界・感覚を感じるのも

作品の醍醐味なのかもしれない

 

そして

その中に手話が入っていたことが

非常に素晴らしかった

 

きっと

こんなことは

映画の主題ではないのだろうけど

気になったので・・・

 

最後のシーンは

私的には

車は大切にしてくれている彼女(ドライバー)に

妻との思い出から

前に進むことを決心した家福さんから

もらって

お母さんとのことから

前に進むことを決心した彼女は

韓国に移住したのだと

そう思ったのだけど

 

まぁ色々な推測があるみたいだけど

家福さんと彼女が付き合ってるというのは

ちょっと違うのでは…と思ったけど

彼女のお母さんが韓国人で

お母さんの故郷である韓国に帰ったのだという推測は

あり得るかも・・・って

思った

あれほど憎んでいた

だけど愛していたお母さん

辛かった過去の思い出

それらから前に進むには

他の国に行って

きれいさっぱり忘れることより

お母さんの国に帰ることの方が

乗り越えたことになると思う

顔の傷がきれいになったことには

正直気づいてなくて・・・

というか傷があることに気づいたのが

かなり後半だったんですよね

傷のことを

これが出来たのは・・・

みたいに言って初めて気付いたので

 

いやぁ

寝る前に

タブレットで

暗い部屋で見てたからかな・・・

気付かなかったのは申し訳ない

 

でも

最後のシーンの

笑顔

うーーん

笑顔というか

幸せそうな顔っていうのを

考えても

お母さんの国って感じがする

 

それを思うと

お母さんが

辛い生活をしていたのも

日本での差別的なこともあったのかもしれない

それは経済的にも仕事が限られたりすることにもなったし

精神的な辛さもあって

そんな中で

女手一つで育て上げたのかもしれない

 

彼女が

このあたりに自分の名字の家が多いのだと

なんとなく父方のルーツを探していたし

その時は自分を苦しめた母親ではなく

父親の方に希望をもって

母を忘れようとしていたのに

そうではなくて

母を受け入れたのだと

 

まぁ実際のところは分からないので

まったく勝手な推測かもしれないけど

 

これまた作品の言いたいこととは関係ないのだけど

台湾人とフィリピン人の2人は英語が分かることが当たり前で

日本人と韓国人はそれぞれの国の言葉で訳されてるあたりも

なんか・・そうだよね

って思ってしまった

小さいことだけど

やっぱり共通語として

英語が果たすことってあるなぁ・・・というか

分かってた方が良いんだなぁと

オーディション時に他の国の人もいたと思うけど

(確かシンガポールとか・・・)

その人たちの言語の通訳はいなかったわけで

つまりは英語ができるのが当たり前ってことで

 

そうだよね

そうだよな・・・と

思ってしまった