↑を見ると
吹替え版は
なんだか色々日本の流行り物を
取り込んでいるようで
製作者の苦労をひしひしと感じました

私は字幕版を見たので
字幕版と
吹替え版で
かなり見る側の受け取り方というか
感想も変わってきそうですが…

LEGOが好きだし
子ども向けの映画も好きだし
なんだか話題にも上がっていて
駄作っていう評価ではなさそうだし…
と見てみた

うーん
面白かったけど
もう一度見たい‼︎
ではないな

すぐ削除

モーガン・フリーマンの声はすぐ分かったので
改めてモーガン色の凄さを実感
まぁ色んなナレーターのお仕事もしてるからだけど
日本も吹替えを
有名人
にしてもらう傾向が増えてるけど
それって
私は歓迎しない…
声の印象が強すぎて
映像に本人の顔がダブってしまうから…
声の演技と
姿を見せた演技は別物だし
決してモーガンの声の演技が下手くそってわけじゃないんだけど
なんだろう
ずっと頭の中に
モーガン・フリーマンがいた

それと
これはどこまで実写なんだろうと
見ている間に思ってました
この街とか実際に作ってたらすごいよなぁ…と
それで
ブロックで作ってるとしたら
じっくり見たい‼︎
と思ったので
とりあえずアクションの場面のスピードが速いことにも
イライラした
見れないよ
じっくり見れないよ
何が何だかわからないヨォ…

Wikiによれば
実写部分もあるけどCG作品ということで
ちょっとガッカリ
でももしかしてストップモーションで撮ったのか?
と思わせるCGってのはすごい

CGでも
本当にLEGOでできてたらどうか…ってのを
しっかり考えて作っているのは
よぉく分かったので
やっぱり
じっくりと
ここの表現にはこのピースを使うのね‼︎
みたいなのをじっくり見れるゆとりが
多少欲しかった…

ストーリーとしては
最初に
マニュアル人間の主人公が出てきたので
あぁ
マニュアル人間批判のメッセージかぁ
独創性を持つことの大切さだな
LEGOだし…
日本人は耳がイタイぜ…

そう思っていた

そしたら
もちろん独創性も大切なんだけど
マニュアルで
協力しあって作れるものってのもある
そこに
それぞれのアイデアを出して
より良いものを作っていくことができる
っていう
両方あってこそ‼︎
みたいな方向に進んでいくので
あぁあああ、そこ行くか‼︎
ってな感じでした

企画は2008年からあったようなので
違うんだけど
それとなく
東日本大震災の混乱時に見せた
日本人の規律の強さというか
そういうところになんか惹かれたんじゃないかとか
勝手に
マニュアル国民代表みたいな感じで思ったりした

LEGOって本当にすごいおもちゃだと思う
LEGOも「◯◯セット」みたいな
◯◯を作るためのキットを
売り出しているけど
ナノブロックみたいな
見本を見て、これを作りましょう‼︎
みたいなおもちゃが増えてる気がする
けど
LEGOの本当の楽しさって
自分で想像して
それを形にしていく楽しさだと思う
どんなものでも間違いはなくて
主に四角のパーツなわけで
できたものも
完璧に本物みたいにはならなくて
そこを補うのは
遊ぶ側の想像力で…
そういった楽しさだと思う

私は
ファミコンとかで遊んだことは
ごくわずかしかないので
言う権利自体がないかも知れないけど
今のゲームは
多くのニーズに応えるため
と色んなオプションを提供しすぎて
結局のところ
想像力や独創性を減らしてしまってる気がする

数あるオプションから
ぴったりのものを選ぶ
って
たくさんある中から
自分の好きなものを選ぶとしても
どんぴしゃってことは
少ないと思う
だから
実際は
人が作ったものに
自分の考えてるものを
無理やり当てはめて納得してることで
自分で作るのとは
やっぱり違うと思う

自分で街を作るとか
畑を作るとか
何かを育てるとか
そういうゲームもあるようだけど
やっぱり
全くの自由な状態ってのは少なくて
でも
そういうゲームが多いってのは
人の欲求として
自分らしさ
ってのを
自分が作りたいものを作りたい
っていうのがあるんだと思う

そこを
子どものうちから
提供されているものから選び出す
という思考にしてしまうのは
やっぱり危険だと思う

たくさんのオプションから
選び出す
一見したら
自分らしさを出してるように
勘違いしちゃう状態

知らず識らずのうちに
人が作った世界で満足しちゃう
知らず識らずのうちに
自分の希望とぴったりだ
そう勘違いさせるオプションが
提供されるものだと考える思考

それは
危険だと思う

自分で作ることって
大切なことだと思う

あぁぴったりのオプションがない
それは
周りが悪い
そういう思考って
現に生まれてると思う
オプションがないから
自分で作るっていう
思考がなくなってきている

LEGOのサイトを見たら
恐ろしいことになっていた
「Aを作るには
 aのパーツが必要!」
みたいなことになってないか?
「Aを作るには
 bとcを組み合わせたらできるんじゃないか?」
そういうワクワクが減ってきてるような気がする

子どもが
「Aを作りたいからaの部品買ってくれなきゃイヤ‼︎」と
駄々をこねる姿が…

そりゃLEGOだって商売だから
子どもたちがそうなった方が
売り上げは伸びるんだけど…

複雑

キャラクターだって
とんでもないことになってる
http://www.lego.com/ja-jp/minifigures/characters 
これじゃ
子どもが
「◯◯買って!」
と益々言い出すわけですわ…

私の時は
本当に少しの人形しかなくて
男の子か
女の子か
くらいで
髪の毛を付けるか
帽子をかぶせるか
とか
それでもワクワクしてた
表情も
そんなになくて
というか1種類だったと思う
それでも
笑ってるようにも
真面目にしてるようにも
怒ってるようにも見えたし
お父さんになったり
お兄ちゃんになったり
友達になったり
色んな役を引き受けてくれていた

最近
LEGOが車椅子のLEGOを発表して
話題になっていたけれど
それは
車椅子に乗ってる子が
自分と同じような子がいない
ってことで
署名を集めて実現したから
それは
そのぉ良いというか
良いんだけど

バービーとかも
いろいろ
小さい時から
あの人形で遊んでいると
子どもが自然に
バービーみたいな姿が
目指す姿だと思い込んでしまう
とかの研究もあったみたいだし
バービーに
色んな肌や髪の毛の色の子ができたのは
良いことだと思ってる
あれは
見た目を
遊ぶ玩具だから

だけど
LEGOは違う気がするのだけどね…

肌が真っ黄色なLEGOだけど
黄色人種の私は
「あれは
 私たちのことを
 馬鹿にしてるのか!」
なんて起こる気はない

キャラクターは増えてるけど
「基本」肌の色は
黄色のままを保っていたことには
安心した

それを


所謂、肌色
にしたりしたら
それこそ
大変だと思う

"emoji"騒動
みたいなことに
なるんじゃないかねぇ

白人の子と
黒人の子と
黄色人種の子が
一緒に遊んでたら
自分の肌の色のLEGOがないって
泣き始めたとか
そこに
自分の眼の色や
髪の毛の色
体型まで加わったら
そりゃぁキリがない

あのLEGOは
誰にでもなれるから
良いんだと思う

変に
色や形にこだわるから
問題なんであって
魂のレベルでは一緒なんだから
っていうと
へんちくりんだけど
仲良くなれば
外見とか気にならないわけで…
だから
友達、分身である
LEGOも外見は
関係ないんだと思うけど
玩具の外見も選ぶようになったら
そこから
友達も外見で選んだり
周りの人を「◯◯な人」としてしか
見なくなるんじゃないかねぇ


同じパーツで
同じものでできてるって方が
良いと思うが

なんて
映画の話からずれっぱなしだけど
映画としては
同じ顔の
同じLEGOを単純に
服のピースの色だけ変えていたら
誰が誰かわからなくなって
話についていけなくなるから
まぁ
キャラクターが
皆違う外見っていうのは
しょうがないけど

あの皆が
全く違う外見のLEGOが実際に
売られているという衝撃
バットマンは
バットマンでしかなくて…
っていうね
黒の服着せて
頭になんか違うピースをくっつけて
バットマンだ‼︎(と言い張る)
そして
バットマンの動きを
シュイッシュイッとか言いながら付ける
それで
もう自分の世界はバットマン‼︎
っていう方が
楽しそう

そういう
昔のLEGOへの郷愁的なものは
ありましたが

まぁ
暇つぶしに見るエンターテイメント
としては
後味は
悪くないと思われる

LEGO(R)ムービー [DVD]/ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント

¥1,543
Amazon.co.jp