康 照

     (こうしょう) 

夜の帝王から市議会議員、そして僧侶。 
波瀾万丈の人生から、後悔しない生き方を探る 

PROFILE 康照

昭和35(1960)年3月埼玉県春日部市生まれ、春日部市在住。

駅前旅館の長男として何不自由なく育ち、飲食店やナイトプレジャー産業を経て39歳で春日部市の市議会議員就任。3期目の任期満了とともに心臓手術のため引退。後に出家得度して真言宗の僧侶となる。レインボータウンFMの番組クリスタルismに第2、4金曜日に出演し、生き方のヒントを講話。選挙プランナーとしての顔も持ち、2019年の統一選挙に向け、地方選の立候補者を募集中。

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 ▲Written by Sugina  大学卒業後、出版者勤務を経てフリー。文藝編集者から取材記者まで幅広く活動。著書に『おまじない教えてあげる!』(集英社)、『薫の君によろしく』(双葉社)、

『なごみ歳時記』(永岡書店)など。週刊「サンデー毎日」に著者インタビュー連載中 




バブルと共に平成を駆け抜けた30歳代。 
春日部に夜の歓楽街を作ってしまった!


 ――六本木あたりにはお洒落なカフェバーや風俗、扇を振るディスコなど、バブルの象徴のような店がたくさんあって。どこへ消えたんだろうと不思議に思っていましたが、康照さんのプロフィールを拝見して、「あっ、ここにいらした!」と発見した思いがあります。

 康照 そう。あの頃、私はすごい出店攻勢をかけていたんです。銀行も幾らでも金を貸してくれましたしね。春日部のような郊外も同じです。当時は静かな住宅街で、夜にやっている店はママさんがやっている、昔ながらのスナックくらい。ここにキャバクラやフィリピンパブ、ニューハーフクラブの大攻勢をかけたらどうなるだろうと。5千万から1億以上かけて投資し、女の子も集めて内装も豪華に、十数店を展開したんです。

 ――なんと豪華な。今だけだから一気に稼いじゃおう、と?

康照 今だけ、とは思っていなかったですね。まさかあれが「バブル」だったとは。みんな、ずっと続くと思っていたんじゃないですか。駅前旅館のあととり息子として、何不自由なく育っていて、大学を出てからは熱海のホテルに就職したんです。自分でも経営をやってみたくなったのが実業のきっかけです。流行りのカフェバーから始めて、屋台村、居酒屋、もつ鍋屋……。キャバクラやフィリピンパブといったナイトプレジャー産業は、自分が行って面白かったから、地元にも作って、みんなにも楽しんでもらおう、という気持でした。出せばお客が来るのが当たり前の時代だったんです。

 ――みんな、景気よく遊んでいたんですね。

 康照 店だってそうですよ。バブルが弾けてからは、あれほど「借りてくれ、借りてくれ」と言っていた銀行が、掌を返すように「返せ」と変わりました。貸しはがしです。以前のおだやかで上品だった銀行員から豹変していました。私も、暴力団のようなところからも資金を集めて払ったのです。借金しても半年で回収できていたのに、もう客が来ない。レジャー産業って不景気になると最初に削減されるところなんです。これが定食屋とかなら、日常の食事ですから、意外と不景気にも強かったかもしれないですが……。

 ――なくて困るという場でもない。大人の社交場ですしね。

 康照 落ち着いたのは不動産を売却し、事実上の倒産をして、底の底まで落ちたからです。自殺を考えたこともありました。車を運転していても飛びこみたくなる。パニック障害の症状でしたね。客は来るもの、それしかなかったから、煮詰まったらどうすればいいかを考えたこともなかったんです。 

                    ▼ みんなが借金をして遊んでいたバブル期。1992年頃



 


ボランティアで出会ったフィリピン少年の夢は、
「大人になるまで生きること」


 ――日本はそれから「失われた20年」に突入します。景気は底冷えして株価はピタとも上がらず、節約一辺倒に。

 康照 銀行が貸してくれないんだから、節約するしかないですよね。融資なしで商売し、利益を上げるにはどうすればいいか、30代後半になって、初めて真剣に勉強したんです。大学も「入れるところに入った」だけで受験勉強しなかったですしね。ありていに言うと、内装もメニュー開発も自分たちででできることをし、手当たり次第に広告は打たず、顧客にだけ的を絞ったダイレクト・レスポンス・マーケティング(DRM)をするんです。


これで、無借金で繁盛店をつくりました。雑誌やテレビの取材を受け、ぐるなびから表彰されたこともあります。 

――それはすごい。ずっと地元で経営していらしたので、地の信頼関係があったのもよかったのでしょうか。 

康照 はい、29歳から地元の青年会議所に入っていたので、青少年の育成活動も参加していました。それからはフィリピンパブではなく、フィリピンのインフラを整えに現地へ。ボランティアで仲間と養豚所をつくり、衛生環境を整え、ごみは分別すれば資源になることを教えたりしました。感謝されたことは素直に嬉しかったです。

今でこそフィリピンは高度成長期ですが、20年前はごみをあさって暮らす子も多く、衛生環境は極端に悪くて、小さな子に「大人になったら何になりたい?」と聞いたら「大人になるまで生きていたい」という答えでした。あれは胸が痛かったです。

行政の壁に阻まれることなくボランティアをしようと、39歳で市議会議員に立候補し、初当選しました。このころから、人知を超えた存在とのつながりを意識するようになっていきます。

 ――本当に、何かに率いられるような人生です。周辺を漂っていたのがだんだん真ん中に絞られていくような……。 

貧富の差が激しく、貧しい人はゴミ漁をするしか生きる術がなかった。



10時間の大手術から生還すると

人格が変わっていた

 ――それから3期12年間、市議会議員を務められました。10年ごとに大きな転機がやってくる形でしょうか。

 康照 ええ、家族は好きにやらせてくれました。地元のために働いた40代でしたね。飲みに行くのが大好きで、飲まない日はないほど。だいたい3時、4時頃まで飲んでいました。今はすっかり健康おたくですが。変わったのはやはり、50歳で受けた心臓弁膜症の手術がきっかけです。

 ――価値観が変わるほどの大手術?

 康照 急病ではなかったんですけどね。小学生の頃から、3枚ある大動脈弁のうち2枚が張り付いていると言われ、将来は人工弁に交換する手術が必要だろうと宣告されてたんです。弁を交換しないと心臓の運動が増え、心臓がどんどん大きくなると。50歳になって「もう限界ですからすぐ手術です」と検診先で告げられました。肋骨を切って心臓を取りだし、切り開いて大動脈弁を機械弁に交換しまた戻す手術です。 

――それはなんと……。 

康照 心臓を外に出すわけでしょう。いや、成功率9割以上の手術ではあったんです。でも99%でも、残りの1%にならない保証はない。入院するときは、「もう帰ってこなくてもいい」くらい身辺整理しました。家族が病院に来てくれてね。死ぬときに人生が走馬燈のように巡る、と言いますよね。自分は50年の人生をやりきっただろうかと考えざるをえませんでした。市議会議員も次期選挙には出ず、引退したわけです。 

――それが、気がついたら手術は完了していた。

 康照 麻酔で寝ている間にすべてやっていただいたので(笑)。しかし、手術を終えたら、まったく人格が変わってしまった。あれほど好きだった酒もまったく飲みたくないし、夜に出歩くことにも何の興味もなくなったんです。 

――すごく不思議な気がします。 

康照 人生、何が起こるかわかりません。自分は次に何をするのか。それまで自分が培った生きかた……遊び呆けていた20代、飲食店ビジネスに没頭した30代、地元のために働いた40代を通して培った、生き方のヒントのようなものを伝えていけないかと思いました。

例えば、人間、生きていればいろいろあります。中にはこれだけは許せないという人や物事もあるかもしれない。でも、相手は自分のことを「あいつだけは許せない」とまでは考えていなかったりします。ということは鬱屈しているのは自分だけ。過去のそんなことにとらわれて今を悶々と生きるのは損だと思いませんか。それも、自分だけが損。 

――本当です! 

康照 伝道には僧侶という道があったわけですが、もともと、私のような一般人が僧侶になれるとは考えていなかった。「インターネットで探せる」と友人が教えてくれたのがきっかけです。

 ――95、6年頃からネットが普及し始めて、議員活動や文書作成、SNS交流などに駆使してらっしゃったんですよね。それにしてもそこまで人生が激変するとは。 


先生の先生……とさかのぼっていくと、
最後は弘法大師に突き当たる

 ――具体的に、一般人が僧侶になるって、どうするのでしょう。 

康照 まず、お世話になる宗派を決めます。私の場合、一も二もなく真言宗でした。

実家が檀家でしたし、真言宗智山派の大本山である成田山は、子供のころからお参りに行っていて、親子ともども世話になっていたんです。それで真言宗の先生をネットで探し、人間的にも素晴らしい方に出会えて、弟子入りをお願いしました。

お坊さんというと読経や講話のイメージがあるかもしれませんが、修行はちょっとイメージが違うんです。「しんくい」を通じて、自分が仏様の中に入り、仏様の中に自分が入っていくよう修行を積んでいきます。

しんくいとは、身(体)、口(言葉)、意(心)と書きます。この三つが大日如来と一体化するよう、印を組み真言を唱え瞑想したりします。師匠になっていただいた俊照先生も、ご自分の先生からそうやって教わりました。 

――親子のようにずっと繋がっている教え。最後まで挫折せずにやり抜けたのはなぜでしょうか。 

康照 やっぱり、何もわからないので無心に、ただやるしかなかったからでしょうか。

修行は四段階に分かれていて、阿闍梨(あじゃり)という位まで達すると、弟子を取れるようになるんです。そこまで行っても、仏道のほんの入り口。師からいただいた系譜には、自分がどの位置にいるのかがはっきり書いてありました。先生の先生……と遡っていくと、最後は弘法大師に達するのです。 

――それは感動します。 

康照 死ぬの生きるのの経験をして、マイナスからのスタートでした。人生は、これまでの生き方を振り返り、生かして、まったく新しい人生を歩むこともできるんですね。別に、僧侶になることに限らない。独立や起業、あるいは美容師や整体師のような資格を取るのもいい。50代なら、これまでのスキルやネットワークを活用すれば、収入も増えていくでしょう。

私自身は、実社会にもつながる生き方のヒントのようなもの、時には精神的な、勇気や癒やしがあるようなヒントを授けながら、人生を旅する生き方ができたら……と思うようになりました。

 「旅」というのは比喩だけでなく、できれば一年の半分くらい海外で過ごせたらいいなと思っています。インドでお釈迦様が悟りを開いた菩提樹の下、瞑想したこともありますが、仏教の本場であるインドで修行したくとも、外国人向けプログラムはほとんど英語で行われます。英語を磨くために海外留学することも、近々の目標の一つです。




 ――なるほど。生涯勉強のようなものですね。

 康照 今、自分が欲するとしたら、モノではなく、そうした経験ですね。

――確かに。死ぬとき、「あれも欲しかった、これも欲しかった」と思う人はいないかも……。 

康照 後悔するとしたら、「あれもしたかった、あそこにも行きたかった……」じゃないかな。自分でも、そういう生き方はしたくないし、人にも、「あれもやった、あそこにも行った、やってよかった!」と満足する生き方をしてほしい。  

――康照先生の弟子にはなれるんでしょうか。 

康照 もちろん。女性もなれますし、今は頭を剃ったりしなくてもいいんです。修行期間を分割して行うことも可能です。弟子を持つこともこれからの目標の一つであり、最後まで挫折しないよう導いてあげること、弟子がそのまた弟子を持つことも私のこれからの望みです。 

――人間の営みはそうやって続いてきたのかもしれませんね。ありがとうございました。 


【取材を終えて】 

カフェをやりたい人には「こうすれば開業できる」「儲かる」といった飲食コンサルタントビジネスがあり、副業のための講座や、海外でボランティアしたい人に向けたセミナーも、多々あります。でも、そうした「教え」の中に、「なぜそれをしたいのか」「それをすることでどんな心の平安が訪れるのか」まで踏み込んでいくものは、そうありません。

言葉に尽くせない経験を経て僧侶となった康照さんが説くことには、単にノウハウだけでなく、人が人となぜ出会いたいのかまでを踏み込んでいく、人間の根本にまで触れていくような確かさがある気がしました。一本、筋が通っていれば、失敗なんて些細なこと。またやり直せるチャンスでもあるんです。生き方のヒントは、「より優しく、強くなれる生き方のヒント」と言い換えてもいいかもしれません。   


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▼2011~2012年

1月は正月。2月は節分。3月はひなまつり……。昔ながらの日本の行事をたのしんでいるだけで、一年がゆったりと豊かに流れます。取材しながら、約半年以上かけて作った本。今は、なかなか、こんな、のんびりした本作りができません。



▼2016年

日本語の豊かさに再注目して書かれた本。近くの大学にお勤めになられている金田一先生に取材させていただきました。すっごくお茶目な先生です!

▼2014年

文藝春秋社で編集者をつとめあげ、宮本輝氏や中上健次氏を世に送り出した辣腕編集者に取材させていただいた記録。作家志望者だけでなく、一般読者にもたいへん評判のよかった本で、文庫本としてずっと残ることに。最大の栄誉ですね。皆様、ありがとうございました。

▼2015年

 都内の夜遅くまで開いている美術館をひたすら取材しました。美術館ガイドは数あれど、夜に特化したものがこのときはほとんどなく、増刷の運びとなりました。表紙は、通称トーハク、国立博物館です。幻想的なライトアップは、美術館は外観だけでもアートなのだと感じ入りさせられます。


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