24歳でスカラ座デビュー、 今は世界中で活躍し、若き天才の名を欲しいままにするコンサート・マスター、アンドレア・バッティストーニさんに取材させていただきました。

「好きなことをとことん楽しめば、誰でも、思った以上のところに到達できる。頂きは、誰にも見えない」というお言葉が印象的でした。新春コンサートの記事ですが、ウェブで今も読めますので、ぜひお楽しみください。


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きのうの雨で思い出したこと

 あれは、いつのことだったのだろう。近所のスーパーマーケットからの帰り、私は雨に濡れた石畳の舗道を歩いていた。長い坂道が黒く塗られたように濡れて光っていた。空は西のほうだけが晴れていて、私と同じように西側をちらと見やる人たちが足早に過ぎていく。今このとき、私の隣で立ち止まって、西のうす赤く晴れた空を見上げる人がいたら、私はどんな人でも恋することができるだろう。もちろん、相手にも選ぶ権利はあるだろうけれども、私はそういう運命のときを、二十歳を超えた今も信じているし、愛している。恋人たちが恋に落ちた瞬間というのは、相手を見つめあったときではなく、同じものをふと見つめた瞬間だ。
 ぐしゃり、と足元で何かを踏みつけた気がして、はっとして覗くと、それはどこかの子供が落としていったらしい、かえるのおもちゃだった。ゴム製。めがねじゃ、なかった。はっとしたのは、自分のめがねが先週から見当たらなくなってしまい、それが雨の中でずっと濡れながら落ちているというイメージに後ろめたさを感じていたからだと思う。めがねを落とすなんてどうかしている、と大学院の友達は笑う。コンタクトレンズならわかるけど。
「しょうがないわ祥子。サングラスのつもりで、ちょっと気取って頭にかけていたの。いつのまにかなかったの。慣れないこと、するもんじゃないわね」
 講堂の隅で祥子につぶやいた言い訳をまた、心の中でつぶやいた。高かったのだ、あのめがね。
 よく見ると、雨の舗道には、カエルのおもちゃなどよりずっと面白いものが落ちていた。焼肉屋開店、50%割引。携帯サイズのティッシュペーパーに、明るい文字が躍っている。チラシをティッシュペーパーの裏に台紙代わりに敷いて、駅前で配るなんて広告法を考えたのは誰だろう。おかげで東京に暮らしているかぎり、ティッシュペーパーは買わなくてよくなってしまった。それが、もらいはしたものの、すぐ捨てられたのだろう、くしゃくしゃによれて敷石の上で濡れている。骨の折れた折りたたみ傘。ひしゃげた体みたいだ。雨をよけて駆けていった女の子の頭から滑り落ちたのだろう、光った髪飾り。軒下のそれを雨風がさらったのだろう、子供サイズのTシャツ。明日、晴れれば、それらはもうきっと、なくなっている。持ち主も、なくしたことさえ忘れている。つまり私たちはゴミの中で暮らしているのだ。私だって、あのめがねがなくなったって死ぬわけじゃない。

ゴーヤを育てています。

植えたのは、5月下旬です。


苗から育てたほうが簡単らしいのですが、土に直播したいと、種を買ってしまった。


 ふた粒ずつ蒔くように、とあって、そのとおりにしたのですが、今、ぼこぼこすくすく芽が育っています。


 こんなんじゃ、ありすぎじゃん。どうしよう、と思ってネットで改めて調べると、間引きするらしいんですね。


 つまり、ひとつの穴にふた粒ずつ蒔くと、互いに守りあいながら苗に育つ。本葉が出たころには、特にすぐれて成長した苗というものが目立ちはじめる。


 そのときになって、弱いほうを切っちゃうらしいんです。


 これはショックでした。きょうだいがたくさんいて、結局つよい子が残る。他は踏み台という、なんか昭和の大家族の育て方みたいだ。


 でも、涙をのんで間引きしないと、みんなひょろひょろしちゃうらしいの。


ポットで売っている苗は、そうして残った「強い子」です。それを買えば、種から育てた場合の間引きの仕方も知らなくて済んだでしょう。



 しかし、これが植物の実情、生きて伸びていくための非情というのなら、やっぱり種から育ててよかった。


 間引きをする日が迫っています。ごめんね。


休日オフタイムを利用して、渋谷のユーロスペースへ行ってきました。

話題の「みんなのアムステルダム国立美術館」を観るためです。


2003年から2010年まで休館していたアムステルダム国立美術館の、改装をめぐる顛末記のドキュメンタリー。地味なネタなので休日といえどもそんな人はいないだろうと思っていたら、ぎりぎりで行ったところ席が2、3しか空いていない大盛況。若干年齢層が高めだったのは、やはり美術ネタだからかな? 美術館の入場者は、40・50代以上が圧倒的に増えているらしいです。サブカルチャーにどっぷり浸かって育った世代が大人になったということかもしれない。私が子どものころは、美術館や映画館に行く大人なんてほとんどいませんでした。カルチャーは若者のものだったのだ。



で、そのアムス。百万点以上の収蔵品を、より美しく、ゆったりと見せるための美術館改装なわけですが、日本との違いをつくづく考えさせられました。


・百万点以上の収蔵品! なんであんなちっこい国に、そんなにお宝があるの? やっぱり、かつて海洋王国だったからかな? 言っちゃ悪いけど海賊行為をしてさらってきた戦利品がかなりあるに違いない。


・美術館長のプライドの高さ。芸術都市アムステルダムにふさわしい美術館に生まれ変われさせると、断言してはばからない。しかしそこに立ちはだかるのが市民団体です。現在2ブロックに分かれている美術館を一つにし、中庭にカフェを作るというのが館長の案だったのですが、それをすると、今ある自転車道(!)をつぶさなきゃいけない。

 そんな、自転車なんかどうだっていいだろ、と思うのですが、市民団体は、自転車で美術館の間をつっきれる今の道路を維持したまま美術館を改装しろと言って聞かない。「美術より道路のほうが大事なのか?」と呆れた館長は辞任。さて、名誉ある美術館長には次に誰がつくのか。ここでも小競り合いが……。


・コレクションディレクターは、さらに収蔵品を増やそうとサザビーのオークションに出かける。30万ドル、40万ドルと釣りあがっていき、ついに、「買えない……」と悔しそうに下ります。買ったのは他の美術館なのかな。市民の税金を使って運営する公立美術館なのだから、当然、予算とのせめぎあいがある。


・同館にはアジア館があるのですが、ここに日本の仏像を置きたいと考えるディレクター。どうやって調べたのか、日本のおそらく西方にある山まで訪ねて、山中の寺院の住職にかけあい、仁王像を手に入れる。運慶の作のような、すばらしい木の仏像です。それをいとしそうに見つめるディレクターたちの目。日本のエキゾチズムは美術館に陰陽でいえば「陰の花」を添えるようなところがある。目を剥き威嚇する仏像。「日本のおかあさんは、わがままを言う子に、仁王さまが来るよといって躾けたんですよ」と、ディレクターが観客に説明する。それはちょっと昔だと思うんだけどなあ、でもそうやって、ちゃんと日本の文化が遠く離れた西洋にまで伝わっていくのが嬉しい。


・フランスのルーブル美術館へのコンプレックス。やっぱりあれは世界一の美術館なんですね。収蔵品といい、集客力といい。で、ルーブルには負けたくないといっていた館長が結局、壁の色はどうしたらいいかなど、パリまで出かけていってルーブルのひとびとのアドバイスを聞く。ドラマやな~。



・市民の関心の高さ。日本でも美術館改装はよくあるけど、みんなあんなに再開館を心待ちしないと思う。再開の日、鬼のように人々が詰め掛けて、なんと当日の朝は花火まであがるのだ。この花火のシーンが素晴らしい。真っ赤な花が咲くようで、感動しちゃいました。



 日本はサブカルチャーは世界トップクラスだと思うが、国営メインカルチャーは今いちぱっとしないと思う。美術館も、借り物が多いし。戦国時代やら明治維新やら太平洋戦争やら通って、お宝が紛失・流出したのが大きい。まあ、京都が屋根のない美術館ではありますが。


 映像ごしではありますが、レンブラントなどの名画も見られます。しかし何がうらやましいって、こういう仕事をしている人たちですね。地味な修復師の仕事とか、いいなあ~~。


 なぜか過去の遺産を後世に伝える仕事というのに興味があって、金閣寺の修復ドラマなんかもつくづく見ちゃいます。本でいえば、小説なので架空の話だけれど、源氏物語や聖書など、世界の名著を丸暗記して(印刷物が禁じられた近未来の設定なのだ)、子どもに聞かせるレイ・ブラッドベリの『華氏451』がたまらなく好きなのだ。うらやましい。すばらしい。


 無数の人々のたえまない情熱と努力によって、文化は明日も受け継がれていく。








 インターネット生中継で、ローザンヌ国際バレエコンテスト2015を放映中。


 いつも、辛らつなことで有名な名物おばさんのコメントが入っている決戦しか見たことがなかったのだが、きのうのは予選なので画像オンリー。


 次々と出場者が出て3分内で踊る。いろいろな肌、国籍の人々がソロで勝負に挑む。クラシックとコンテンポラリーの2部門があり、今は両方ができなきゃプロになれないので、当然、プロの登竜門である同コンテストでも、一人が両方を踊ります。日本人もけっこう出ていた。


 クラシック部門は、どうしてみんなああ同じ演目なのか不思議になるほど、『眠りの森の美女』『ジゼル』『ドンキ』『白鳥の湖』のオンパレードだった。おかげでブラジル、日本、ポルトガル、ハンガリー、中国エトセトラ、各国のデジレ王子を見てしまった。

同じ演目を踊ると、実力の差がはっきり出てしまう。日本の17歳がデジレ王子を踊ったときは、「おおっ、これは行けるかも」と思ったのですが、次に欧州の少年が出て、ジャンプのあと1ミリも落ちないアラベスクの後ろラインを見て「あ、こりゃダメだ」と諦めた。


吉田都さんのような一流のダンサーを見ているとよくわかるのだが、ダンスの魅力は本当に「音」だと思う。長く、高く、低く流れる呼吸のような音楽に乗って、ダンサーが自分なりに味つけして踊る。振り付けは決まっていても、どこで止まるか、また後どりするかなどはそれぞれのセンス。私は、氷面で白鳥が羽をさざめかせながら進むかのような細かいステップは一瞬で音を取り、ジャンプではやや先取りして、着地のあと、しばらく世界を止めるようにぴたっと止まる音の取り方が好きだ。


 しかししかし、ジャンプのあと寸部のゆれもなく止まって「躍動」から一瞬で「静寂」に持っていきたいと思っても、筋力が鍛えられてないと、べちゃっと落ちるだけなのである!


 これはほんと悔しい。練習あるのみ。上で止まっていられる熊谷哲也さんやニジンスキーってどういう体しているんでしょ。


 そんなふうに踊っている外国のダンサーが一人いて、客は叫ぶような拍手喝采を送っていた。ああ、生で見てみたい!



 で、ひるがえってコンテンポラリー部門。課題曲がよかった。連続する音、クラシックのように「1」がどこかわからない、すべてがつながっているような音楽。アンビエントハウスっていうのかな。そうして、それにあわせて連続する振り付け。一見自由なようで、様式美がクラシックより厳しい。よかったのは、みんな、クラシックを踊っているときより生き生きして見えたことだ!


 やっぱりコンテンポラリーダンスは格好いい。今の自分をどう生きるか、何がしたいのか、客に突きつけてくるような現代性がある。


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 で、ひるがえってドラマの話。なんというタイミングか、同時間に、コンポラリーダンサーと女教師の「大人の愛」を描いたドラマ『セカンドラブ』の初回を放映していたのだ。



 亀梨和也がコンテンポラリーダンサーの「役」をしているのだが、目をおおいたくなるような悲惨さ。役者さんだからしょうがないのだけれど、スローモーションや顔だけの部分カットだけ見せていて、たまに全身が映ったら倒立だけ。


 逆立ちはダンスではありません! 前後からどういう文脈で踊るのか見せてくれ。


 どうして森山未来とか、ダンサーの俳優を使わなかったんだろう……なんとなく、聞くまでもなくわかるけど。ダンス映画『すばる』も、本職のバレリーナがヒロイン役に決まっていたのに、なぜか直前で落ちて黒木メイサさんになってしまったし。


映像で、タダでほんとのダンスが見られるのは、一瞬だけどユニクロのCMかな。それ以外は劇場に行けってことですよね。