43.2 J・F・ケネディの少年、青年時代 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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心に響く名言

43.2 J・F・ケネディの幼年期から青年時代

ケネディ家の系譜

J・F・ケネディは1917年5月29日に、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ブルックラインに父・ジョセフ・P・ケネディ・シニア、母・ローズ・フィッツジェラルド・ケネディの次男として生まれました。

ジョンの4代前の祖先、パトリック・ケネディはアイルランド出身の移民で、祖国の差別や飢饉を逃れて食うや食わずで新大陸に渡りました。
そして、港湾労働者として働き一家を養います。
その長男でJ・F・Kにとって祖父にあたるパトリックJRは、ボストンでサロンを開業します。彼の経営したいくつの店はとても繁盛し、資産家としてのケネディ家の基礎を築きます。
やがてパトリックJRは政治に興味を抱き、マサチューセッツ州の下院議員になります。ボストンのみならず東海岸で知られた存在となります。

このパトリックJRの長男のジョセフ・P・ケネディ・シニアは、(1888年-明治22年生)ハーバード大学を卒業後、金融業につきます。

学生時代にジョセフが学校の成績やスポーツで良い結果を出しても「偉そうにいっても、あいつはアイリッシュだぞ」と級友達から陰口をたたかれたことから、いつか大金持ちになってあいつらを見返してやると決意したそうです。
当時の合衆国において、アイルランド移民は少数民族でカトリック教徒でもあり、人種差別の意識が強かったこの時代の合衆国では、アングロサクソンの人からは見下されていました。

ジョセフは機を見るに敏感で、金儲けに関して素晴らしい勘と才能を備えていました。
耳寄りな情報を入手するとその情報を元に策を練り、自分の全財産をかけてその事業に取り組み、成功させるといった運と度胸も備えていました。
州の銀行審査官を皮切りに、若くして全米で中堅のファースト・ワード銀行の頭取になります。


さらにジョセフは第一次世界大戦(1914年~19年)中に、義父のジョン・フィッツジェラルドのコネで巨大鉄鋼コンツェルン傘下のベスレヘム造船の支配人補佐となります。
ここで海軍次官補だったフランクリン・ルーズベルト(後に第32代大統領となります)と知り合います。

ジョセフは1920年代の好況期に、株式や不動産投資で莫大な資産を築きます。
1929年、世界の金融市場を震撼させた大恐慌の時も、株価大暴落を正しく予知し、いち早く撤退し自分の資産を守り抜きます。それどころか株の空売りで大儲けをすると共に、暴落した不動産を買うことで資産を倍増させました。

映画産業の経営にも乗り出し、複数の映画会社を統合してハリウッドのRKOを設立する過程でも一財産を築きます。

さらに1933年に禁酒法が廃止されると、ルーズベルト大統領の長男と組んでサマセット社という会社を設立、大量のジンとスコッチの輸入を一手にとりまとめさらなる富を生み出します。
こうして当時の全米の長者番付けでもトップ15以上にランキングされる本当の億万長者になります。

 


[父ジョセフ・ケネディ、兄ジョセフJRとジョン・F・ケネディ]

但し、ジョセフに関して悪い噂も絶えません。
ジョセフの株の取引手法は、正統的なものばかりではありませんでした。
インサイダー取引や風説の流布、空売りと組み合わせた相場操縦など、現代では禁止されている手法も多様しています

また、ジョセフが禁酒法時代にマフィアと組んで酒類の密輸で稼いでいたことは公然の秘密として語られていました。ケネディ家とマフィアの繋がりはこの時代から続いていたのでしょう。

一方、母のローズの生家もアイルランド移民から身を起こした名家でした。
JFKの母方の祖父になるジョン・フィッツジェラルドはボストン市長も勤めた立志伝中の人物でした。

母ローズは黒髪で頬の赤い美女で、毎日ミサを欠かさない熱心なカトリック信者でした。
二人の間には四人の男子と五人の女子の計九人の子供が生まれています。
仕事で忙しい夫に変わって、子供たちを育て教育したまさに良妻賢母型の女性でした。

ジョン・F・ケネディの幼年時代

ジョン・F・ケネディの幼少時の愛称は”ジャック”でしたが、ここでは”ジョン”で通します。

ジョンは幼少期からいくつもの病気にかかり、病弱で不健康な子供でした。
母のローズは、ジョンが患った幼少期の病気をメモカードに記録しました。
2歳の時に「百日咳、麻疹、水ぼうそう」などを患っています。

1920の2月には猩紅熱にかかりました。これは伝染力が強く、命を脅かす可能性のある病気でした。父も母も、幼いジョンが死んでしまうのではないかと恐れました。

また1928年、10歳の時にはジフテリア反応、気管支炎、を患っています。

ジョンが8歳の時に、兄弟姉妹は7人となりました。兄のジョセフJR、弟のロバート、妹のローズマリー、キャスリーン、ユーニス、パトリスアです。

 

ケネディ家の子供たちは水泳、セーリング、タッチフットボールなどのスポーツをよくしました。
子供たちは一生懸命遊び、お互いに競い合いました。
両親は特に男の子たちの間で競争を奨励しました。
「一番強い者になれ、絶対に二番手になるな」と子供たちを鼓舞しました。

タッチフットボールの試合などで怪我をするのは当たり前といった具合です。
兄がジョンと自転車で競争しようと提案したとき、彼らは正面衝突しました。ジョセフJRは無傷でしたが、ジョンは28 針も縫う大怪我をする羽目になりました。ジョセフJRはジョンより体格が良く力も強かったため、彼らが喧嘩をすると、
いつもジョンが負けることになります。
成績も抜群でスポーツも万能な兄のジョセフ・ジュニアに対する劣等意識、そして厳しすぎる父・ジョセフへの負い目がジョンを苦しめたといえます。
幼児から何度も胃腸の不調などで入退院を繰り返したのもそれが原因とされています。

仕事が忙しく、家を留守がちにする父に代わって、子供たちを育て、鍛えたのが母のロースです。この母も父と同等以上に子供たちを競わせ、スパルタ教育を施しますが、さすがに身体の弱かったジョンには少し手加減をしたようです。

JFKの読書好きは、少年時代の病弱さも関係しているようです。
ケネディ家の中で唯一の読書家でありました。

これも母の回想によると、大病や大怪我などのベッドの中で10歳前後まで両親が与えた本を読みまくっていたそうです。
『アラビアン・ナイト』『宝島』『アーサー王と円卓の騎士』『ジャングルブック』『アンクルトムの小屋』『ジャングルブック』など。
傾向的に、イギリスの政治家、チャーチルに似ています。

1930年、ジョンが13歳の時にカンタベリー・スクールに入学しますが、ほどなく体調不良となり家に送り返されました。

青少年時代のJ・F・K

そして14歳の時に、兄の通うカトリック系の名門チョート校に転向します。
生徒数が五百人の全寮制のハイスクールです。ここで彼は生涯の友人となるルモイン・ビリングスとラルフ・ホートンと巡り合います。
ジョンはハイスクール時代も病弱で、その成績はクラスの中位と必ずしも良くありませんでした。

しかし、親友のホートンによるとクラス内で圧倒的に人気があったそうです。
彼は病弱にもかかわらずスポーツ活動に励み、努力を重ねました。また、自分の気に入ったことには真剣に取り組んだといいます。
一例として、自分の好きな歴史書を読みまくり、気に入った人の名句を見つけると、ノートにびっしりとメモを取って、それを暗唱したそうです。(これが後に政治家になるジョンにとって大切な宝物となります)

ただし保守的な学校のしきたりや校長の差別的な発言に対してはことごとく反抗しました。
このため危うく放校処分になりかけます。
何しろ、寄宿舎の窓から下を通る友人にオレンジを投げつけるとか、授業に遅刻するのは当たり前、土壇場まで勉強はしない、部屋は足の踏み入れる場所がないほど散らかっている、といったあり様でした。

最終的に、父親の学校に対する財政面での寄付のおかげで何とか放校は免れました。

1935年、18歳の時にジョンはどうにかチョート校を卒業します。
父のジョセフはジョンをロンドンのスクール・オブ・エコノミクスに留学させますが、ここでも「黄疸」の診断を受け、仕方なく帰国することになります。


この病気のために、9月の入学式に間に合わなかったそうですが、父親のつてにより10月にプリンストン大学に特別に入学します。

翌年の1936年、19歳の時にまたもや父親の強いすすめで名門のハーバード大学に転校します。
こうして見ると、父ジョセフとその子のJ・F・Kとは、父親の手厚い庇護の元で育てられた子鷹という感じを受けます。
子母澤寛に、幕末の俊才勝海舟(麟太郎)とその父の勝子吉の生涯を描いた『父子鷹』という小説がありますが、この父子鷹を思い出してしまします。
もっとも勝子吉は旗本とはいえ小普請の貧乏侍で、億万長者で政界にも進出する名士のジョセフ・ケネディとはまったく異なりますが。



[20歳の頃のJ・F・ケネディ]

この1936年は、ルーズベルトのニュー・ディール政策がアメリカ大恐慌の中から発表された直後です。
大学では、共産主義をまじえた急進的平和主義を唱える学生達がヒトラーやムッソリーニの肖像画を焼き捨てるなどキャンパスは荒れていましたが、ジョンはこういう学生達とは一線を画し、演劇会を組織したり、水泳クラブを創設するなどクラブ活動に熱心に取り組んでいました。
当初はフットボールにも力を入れていましたが、背中(椎間板)を痛めてしまいます。
この脊柱管狭窄症に関わる病気は、生涯彼についてまわることになりました。

ハーバード大学での最初の二年間の成績は中の下と芳しくありませんでした。
そんな彼に転機が訪れるのが3年生に進んだ時です。

当時、ルーズベルト大統領の下で駐英大使!を務めていた父のジョセフから、「学生外交官として欧州各国の情勢を
調べてみろ」と命じられたのです。

これも何とも皮肉な話で、アイルランド移民の子孫が駐英大使になる。
ルーズベルト大統領の指名に対し、ワシントンの外交界でも悪評が絶えなかったそうですが、肝心のジョセフ・ケネディは気にもとめなかったそうです。

ジョンは大学から特別休学の許可をもらい、1939年1月から欧州を歩き回ったのでした。
まさに第二次世界大戦直前の極めて緊迫した時期でした。

J・F・Kの転機

ジョンは、パリのブリット大使公邸を根拠地として、ポーランド、ソビエト連邦、トルコ、さらに中東を経てパレスチナまで足をのばしました。
各地の大使館員のみならず、一般の市民とも政治的なことを含む多くの対話をしました。
実際に現地を自分の足でまわり、自分の眼で見、自分が感じた現実の状況を、ジョンはインタビューした内容に自分の感想を加えた大量の書簡を父親のジョセフ宛てに送っています。

1939年9月に、ジョンがロンドンに着いた時に、ヒトラーとスターリンが共謀してポーランドに軍事侵攻を始めました。
第二次世界大戦が始まったのです。

この9月末にジョンはハーバード大学四年生の授業に出席するため、ボストンに戻ります。
彼は、英国の外交政策を卒論のテーマとすることに決め、父から1931年以降の新聞、雑誌資料や英国の外務省記録を入手します。
ジョンは寝食も忘れるほど熱心に、ハーバード大学の図書館にこもって卒論に取り組みました。

この論文の目玉は、ヒトラーが密かにナチの軍備拡張を進めている間、なぜ英国は対抗できる軍備の構築を怠ったかを解明した点でした。
J・F・Kは、批判されるのは英国のチェンバレン首相といった指導者の弱腰ではなく、英国の弱体軍備の背後の民主主義国家、世論の状態を重要な要素として取り上げています。
平和時に軍備の拡張のために税金を支払うことは誰も望まないものです。



このジョンの労作といえる論文は教授会で優等と評価されました。
まだ、23歳で父からの影響を強く受けていたジョンでしたが、大戦前夜の欧州や中東の現状を自分の目で見て、人々と
真剣に対話を行い、現実と向き合うことで、自分の翼、自分の意思で自分の人生に向き合い、翔び立とうとしていました。

またテーマに対して、関係する多くの先人の論文、雑誌、外交文書に目を通すことで、政治家として大切な資質、現実と向き合い、その問題点を洗い出し、その現象を引き起こす根本の原因を突き詰める(仮説を立て、それを証明する)といった
実証主義者の能力をこの時に身につけたようです。


ジョンの結論は、「我々は英国の失敗を看過できない。必要なことは、火災が発生しないために、いつでも武装して
万全の守備を固めるべきだ。デモクラシーをもっと役に立つ制度にすべきである」ということです。

この論文は、その後さらに推敲を重ねた後、『なぜ英国は眠ったか』という題名で出版されました。米英で高い評価をうけ、四万部を売るというベストセラーになりました。

こうして1940年、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディは、23歳の時にめでたくハーバード大学を卒業します。

そして、世界は第二次世界大戦の戦火が拡がり続けていました。
1940年4月にはナチスドイツ軍がデンマーク王国、ノルウェー王国に侵攻。
5月にはオランダ王国、ベルギー王国、フランスに侵攻を開始します。
英国ではチェンバレン内閣が総辞職し、チャーチル挙国一致内閣が成立します。

9月には日独伊三国軍事同盟が成立します。
まさに風雲急を告げる時代でした。

今回も本ブログを最後までお読みいただき有難うございます。
ケネディ家のルールの探訪に時間を要し、肝心のジョン・F・ケネディの命式の解読までたどり着けませんでした。


[ジョン・F・ケネディの命式]
次回は、ジョン・F・ケネディの命式の看命と彼の後半生について述べたいと思います。