37.1 吉野裕子の名言「何かを始めるのに、遅すぎるということはないのよね」 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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心に響く名言

37.1 吉野裕子の名言

「何かを始めるのに、遅すぎるということはないのよね」

 

吉野裕子は孤高の女流民俗学者です。
本人いわく、「師もなく弟子もなく、学閥など皆無」

そのような吉野は、日常の生活の中から浮かんできた身近な習俗や文化現象の疑問に対し、書籍や文献を洗い出し、実地調査を繰り返し、そしてひたすら自分の頭で考えて
答えを出してきました。この繰り返しによって、前人未踏の民俗学の未開地を一
人で切り拓くような学者人生を送ったのです。

 

 


[吉野裕子]
 

吉野民俗学の独自性は以下の二点にあるといえると思います。

1.日本の風習や文化を、性(セックス)の観点から紐解こうとしたこと。
現在では考えにくいことですが、柳田民俗学をはじめそれまでの民族学者の間では、
セックスに関する考察はタブーだったそうです。
氏は日本の民俗学に、人間の性の視点からの検討する方法を導入したわけです。

2.日本の祀りごとや行事の中に秘められた原理を、中国の古代哲学である
「陰陽五行説」を用いて解明したこと。

吉野裕子の活躍した今から60年前(1960年頃)には、民俗学者の中に、陰陽
五行説に詳しい人はあまりいらっしゃらなかったのでしょう。

日本の風習や宮廷行事などで、それまで謎とされていた、というか疑問にも思わなかった日本文化の底流にある決まりや事や所作のもつ意味を「陰陽五行説」で解明しようと
試みます。柳田民俗学に欠けていた部分を補っての試みです。

この二つのツールというか視点を使って、吉野は様々な日本の古来から続く習俗や文化現象を紐解いていくわけです。

後にもう少し詳しく述べますが、趣味で習っていた日本舞踊の扇に関心を持ち、その謎を解き明かそうと独学で探求を始めます。
その研究結果を53歳の時に処女作『扇――「性」と古代信仰の秘密を物語る「扇」の謎――』(学生社、1970)を上梓します。
以降、在野で日本の蛇信仰や陰陽五行などを研究し、40年近い学究生活の成果は、
『陰陽五行からみた日本の祭』(弘文堂、1978)、『蛇――日本の蛇信仰――』(法政大学出版局、1979)など23冊の著書として結実しています。


[吉野の処女作、扇]

 

こうして日本の民族学の中に、吉野民俗学ともいうべき独自の境地を切り拓きます。
多くの読者や熱狂的な信奉者を獲得していきます。

彼女は、晩年に自分の人生を振り返って出た名言が
「何かを始めるのに、遅すぎるということはない」というわけです。

この大器晩成を文字通り実現した吉野の前半生を追いかけてみたいと思います。

吉野裕子の前半生

吉野が生まれたのは、1916年(大正五年)10月5日です。
内務官僚の吉野濃(あつし)の三女として東京で出生します。

彼女の生まれた大正時代の1910年代から1920年代にかけて、「大正デモクラシー」
が流行していました。
普通選挙制度や、言論・結社・集会などの自由を求める運動、
男女平等を求める運動が、人々の間で比較的自由に議論されていた時代です。

父の濃は、後に静岡県知事、警視総監、貴族院議員を歴任した官僚・政治家です。
裕福な家庭に生を受け、しかも三女ですから両親にもことのほか可愛がられ、
何不自由ない幼年時代をすごしたのではないでしょうか。

1919年 3歳の時に父の赴任に伴い朝鮮半島へ移ります。
濃は、三・一独立運動(日本でいう「万歳運動」)いわゆる朝鮮独立運動を鎮静化するため、朝鮮総督府に派遣されたのです。

3年後の1922年(大正11)、裕子6歳の時に帰国します。
この時代は1920年に第一次世界大戦が終わり、戦後恐慌が続いている時です。
そして翌23年に関東大震災が発生します。死者・行方不明者は10万人以上といわれています。この世情不安が続くなか、裕子は翌年の1923年に関東大震災で焼け残った女子学習院に入学します。

吉野は女子学習院に通算13年在籍します。
そして、1936年(昭和11)に21歳で女子学習院高等科を卒業します。
この年は二・二六事件が起き、軍部の台頭が顕著になった時代でした。

彼女は13年通っても、未だ勉学を続ける意志は衰えず、進学を希望していました。
この当時、女性が大学に進むことは珍しく、裕子がたいへん勉学好きだったことが窺われます。
その後やっぱりもっと勉強したいからって、今の筑波大学の前身、
東京教育大の聴講生になった。そこで足かけ2年、正味1年ですけど、国文科の聴講生だったの」
と吉野は当時のことを語っています。

しかし彼女の勉学の道はこの後、一旦途切れることになります。
兄の健に強く勧められ1939年(昭和14)24歳の時に、大阪商船に勤めていた
吉野英二と結婚をしたからでした。


新婚夫婦は横浜の山下町に新居を構えます。結婚しても勉学の思いを捨てられぬ吉野は、主婦業をこなす傍ら、図書館通いの日々を送ったといいます。英二は、裕子が独学で勉強を続けることを許したのでしょう。
このエピソードに接すると、新婦の生き方に対する新郎の暖かい思いやりを感じ、ほのぼのとします。
慶応大学出身の英二は、大変穏やかな英国風の紳士であったといわれています。
亭主が女房の趣味の部分や交友関係に干渉せず、好きなことをさせてあげるという二人の関係は、素敵です。以前、本ブログで紹介しました白洲次郎・正子夫妻に通じる部分があったのかもしれません。

しかしこのように仲睦まじい二人に、思いもよらぬ悲劇が襲いかかります。

結婚後まもなく妊娠した裕子は、買い出しに行った際に転倒し、流産してしまうのです。
不幸中の幸いというか、母体は無事でした。
しかし二人にはその後、子どもに恵まれることはありませんでした。
この時の裕子の嘆きは如何ばかりであったでしょうか。

この事件が、彼女の人生に大きな影響を与えたことは間違いありません。

翌年の1941年(昭和16)に、日本は対米英に宣戦布告し、太平洋戦争が始まります。
この戦時下で、日本中の誰もが多少の差はあれど、生活に影響を受けざる得なくなります。
この当時の日本の戦局に対する二人の考えは、何も資料が残っていないので、
想像するしかありません。内務省の高級官吏を父に持っていますので、表立って批判はできなかったでしょう。
しかし、大阪商船に勤務していた英二は当然海外の事情にも詳しく、この戦争で日本に勝ち目のないことは重々理解していたと思います。二人は鬱鬱とした心理状態で日々すごしたのではないでしょうか。

そして、追い打ちをかけるように二人に不幸がおきます。
英二が結核を発病し、裕子自身も肋膜炎を患います。
闘病生活の中で、夫は大阪商船を辞職することになります。

英二は病を克服したのち、義父の濃が斡旋した軍需会社で働こうとします。
1945年、日本の敗戦によって雇用がなくなります。

さらに二人の最大の後ろ盾だった赤池濃が、終戦後間もないバタバタの9月に、大阪駅で鉄道事故に巻き込まれて亡くなります。
1945年(昭和20年)裕子29歳、まもなく30歳の誕生日を迎える直前のことでした。

吉野の青春時代、30年の人生をみてきました。
特に25歳以降の浮き沈みの激しい時代を眺めてみると、
そのことを感じさせるサインが裕子の推命の命式に現われていることに驚きます。

吉野自身も陰陽五行説に興味を抱くようになったきっかけは、易者に相談したことが
始まりでした。後年、
「夫が職を失って、易者のもとを尋ねたのが陰陽五行に入っていく
一つのきっかけでしたの」と述べています。
そして理屈ではなく事実として、その易者の予言がある意味で的中したことに
驚いたのではないでしょうか。

その吉野祐子の命式表を掲げます。

[吉野裕子の命式表]

 

次回は、この命式の解読と、吉野の後半生を振り返ってみたいと思います。
本日も最後までブログをお読みいただき、有難うございます。