36.3 アインシュタインの命式を読み解く | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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36.3 アインシュタインの命式を読み解く

それでは、アインシュタイン博士の命式を読み解いていきましょう。
博士は、1879年3月14日 生まれです。
干支を調べます。
年柱は、己卯
月柱は、丁卯
日柱は、丙申

となります。 
下記の命式表をご参照ください。

[アルベルト・アインシュタインの命式]

 

五行を集計すると、木気が2、日主を含む火気が2、土気が1、金気が1、水気がありません。

日主が丙ですから、日主が旺相であれば太陽のように輝く、文化や科学的な分野の才能に富んでいるといえそうです。
一方で、水気が欠けていますので性格が厳しく、他の人との円満な交際は難しいと思われます。

通変星をみてみましょう。
この人の命式には、正偏ある通変のうち、偏の通変からのみ構成されています。著しい片寄りがあります。

しかもそれぞれの天干と蔵干が干合しています。
何とも複雑で、一筋縄でいかない人物というのが第一印象になります。

月支元命が偏印の偏印格にあたります。
偏印は、食神を厳しく剋します。命式に食神が発現していないのが幸いですが、総じていえばあまり家庭的な人とはいえないようです。

但し、旺盛な偏印を有する人は、普通の人にない並外れた発想やアイデアに富み、想像力豊かな人です。
科学分野の研究という仕事は天職といえそうです。
後に、アインシュタインは大学で教授として学生の指導にあたりますが、人に教えるという仕事はこの人には退屈で、あまり良い教師とはいえなかったと思います。

そして性格的には、大変頑固な面もあります。とに角自分の生き方や考え方に妥協をしません。信念に基づいて行動をする人です。
人の忠告に耳を傾けることはあまりしません。

本人は意識しないのですが、偏印星は人気星でもあります。その生き方や才能に魅力を感じるのか女性にもてますし、男性でもこの人に好感をもつ人が多いようです。
苦しい時や困った時に、思わぬ人の助けがあるでしょう。

健康面を看命しますと、あまり丈夫な体質とはいえないようです。
特に血液に関する病気や腎臓の病に気を付ける必要がありそうです。

以上、命式からアインシュタインの持ってうまれた運勢や性格、仕事運、家庭運、健康運をざっくりと読み解いてみました。

アインシュタインの後半生

1909年 30歳の時に特許局を辞め、チューリッヒ大学の助教授に就任します。
翌年には、プラハ大学の教授になります。この年に次男のエドゥアルトが誕生します。

この前後の数年間はめまぐるしく職が変わり、住む場所も変わります。
1910年にはマックス・プランクによりベルリンのカイザー・ヴィルヘルム物理学研究所の所長に推薦されます。
既に、新進気鋭の物理学者としての地位を確立しており、引く手あまたであったようです。

1912年には、母校のチューリッヒ連邦工科大学の教授に就任し、1913年、プロイセン科学アカデミーの会員となり再びベルリンに移住します。
アインシュタインが34歳の時です。

この頃、アルベルトは従妹のエルザに恋愛感情を抱くようになります。
妻のミレヴァとはどうもうまく家庭生活を続けることができなかったようです。
ミレヴァは二人の子供と共に、チューリッヒに移り、二人は別居状態になってしまいます。

この別居状態は五年ほど続き、1919年に正式に離婚することになってしまいました。
この離婚成立の条件が、将来ノーベル賞を取ってその賞金をミレヴァに譲るということでした。
アインシュタインがいずれノーベル賞を授賞することは、その業績からほぼ間違いことといわれていました。
ミレヴァにとって、魅力的な離婚の条件だったようです。

1914年に、ヨーロッパを主戦場とした第一次世界大戦が起きます。

1916年には、一般相対性理論を発表します。理論物理学者としては、この時が絶頂期となりました。
この理論には星の重力により光が曲げられるという重力レンズの予想も含まれています。

1917年、肝臓病や黄疸といった病をアインシュタインは患います。

(命式からだけみた病の種類は外れています。五行の配置だけでかかりやすい病名を的中させることは難しいです)
38歳の時のことです。


病院は戦争で怪我をした兵士であふれており、一般人のアインシュタインは入院することが出来ず、自宅療養をします。
後妻のエルザが献身的な看病にあたり徐々に回復することができました。

病気から回復したアインシュタインは1921年からアメリカやイギリスを訪問します。
1922年にはフランス、そして日本を訪れます。各地で熱烈な歓迎を受けます。
43歳の時のことです。

この11月にノーベル賞授賞の連絡を受けます。

1932年には、アメリカへ三度目の訪問をします。
この翌年にはドイツでヒトラーが率いるナチスが政権を獲得します。
この後にドイツではユダヤ人への迫害が厳しくなっていきます。

再度アメリカに渡ったアインシュタインは、プリンストン高等学術研究所の教授に就任します。同時にプロイセン科学アカデミーを辞任しています。
彼はドイツ出身で、平和主義や左翼への積極的な支援を行っていたことから、
ナチスのスパイではないかと疑われ、FBIの監視化におかれます。

1936年、妻のエルザが死去します。アルベルトが57歳の時のことでした。

1939年、ルーズベルト大統領宛てに原子力とその軍事利用の可能性にふれた手紙
を送ります。非常に強力な新型の爆弾を作ることができるという内容でした。

1945年、広島への原子爆弾投下の報道に衝撃を受けます。
1946年、原子科学者緊急委員会議長の役目を引き受けます。
また、国連総会に世界政府樹立を提唱する手紙を送っています。



[晩年のアインシュタイン博士]

 

ナチスドイツからの迫害を逃れるためにアメリカに移ったアルベルトは、この地で目にした人種差別には、敏感でした。
この年のリンカーン大学でのスピーチでは、人種による社会の分断は
「白人社会の病気」であると喝破し、その是正に強い意欲を示す演説でした。


1948年、アインシュタインは腹部大動脈に大きな動脈瘤が存在することが
手術の結果判明します。69歳の時のことです。
この年にイスラエルが建国をします。さまよえる民族だったユダヤ人は自分たちの国を作るわけです。しかし、世界の平和とか人種間の平等といった面で数々の問題があったことは皆さんご存知の通りです。

1952年、イスラエル政府は第2代大統領への就任を要請しますが、アルベルトはこれを辞退します。

1955年4月にイギリスの哲学者バートランド・ラッセルと共に、核兵器の廃絶や戦争の根絶、国家間の紛争を解決すること、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名します。

ところが、この月に、再び病魔がアルベルトに襲いかかります。
4月13日に心臓付近の痛みに倒れるのです。
その2日後にプリンストン病院に入院し、周囲から手術を勧められるもこれを拒否します。自分の体にメスを入れることを嫌ったのでしょうが、この場面でも彼の頑固さは変わることがありませんでした。

入院中の間、駆けつけた長男ハンスと面会したほか、病院でも研究を続けるべく秘書に電話をかけ、必要な用具を持って来るよう伝えています。
4月18日に容態が悪化し、入院先のプリンストン病院で死去します。享年76歳でした。

アインシュタインの死後、同年7月9日には彼が生前に署名したラッセル=アインシュタイン宣言が発表されます。

彼の晩年は、物理学の研究を続けながらも、世界で最も著名な科学者として戦争の根絶や科学技術の平和利用に対する運動にも全力で取り組む人生だったと思います。

アインシュタインの命式の読解と、彼の後半生は如何だったでしょうか。

実は、アルベルトに関しては、もう一つの語るべきテーマがあります。
それは、天才の秘密にせまるアインシュタイン博士の脳に関するお話です。もう少しアインシュタインのお話を続けたいと
思います。

今回も最後までブログをお読みいただき有難うございました。