28.1_嘉納治五郎の名言『精力善用』 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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28.1_嘉納治五郎の名言

「精力善用:柔道修行の目的は、練習によって身体精神を鍛錬し、
 これによって世のため人のために役立つことである」


嘉納治五郎は、学生時代から各流派の柔術を学び、これを統合改良して「柔道」を創始しました。
また、アジア初の国際オリンピック委員会委員就任、大日本体育協会の設立、など、広く体育・スポーツの振興に尽くしました。
嘉納は「柔道の父」と呼ばれ、また「日本の体育の父」とも呼ばれています。

本職は教育家で、明治14年(1881)東京大学文学部を卒業後、学習院教授、第一高等中学校校長、東京高等師範学校校長などを歴任した文字通り文武両道に秀でた人でした。

その治五郎の訓えが冒頭の「精力善用」であり、遺訓の「柔道修行の究極の目的」であります。


[精力善用]講道館オフィシャルHPより引用

 

治五郎の創作した四字熟語の「精力善用」は、もう一つの「自他共栄」と対になっています。経営の神様、人生の神様といわれる松下幸之助翁もよく、この「自他共栄」という言葉を好んで色紙に残しています。ご存知の方も多い言葉でしょう。

「精力善用」とは、文字通り「自分の身心のエネルギーを有効に使うこと。世の中のために役立つ善いことに使いましょう」といった意味です。
治五郎は、社会生活を存続発展するものを「善」、これを妨げるものを「悪」と定義しています。

従って、社会生活を良くするために互いに助け、互いに譲る「自他共栄」もまた善であるということになります。
「これが、柔道の根本義である」というわけです。

また、「柔道修行の究極の目的」は筆者の意訳で、原典は「嘉納治五郎遺訓」として広く知られている内容です。

「柔道は身心の力を最も有効に使用する道である
 その修行は 攻撃防禦(こうげきぼうぎょ)の練習に由って
 身體(しんたい)精神を鍛錬修養し
 斯道(しどう)の神髄を體得する事である
 さうして是に由って己を完成し世を補益するが
 柔道修行の究竟の目的である」


現在(2021年1月)、世界中に新型コロナウイルスが蔓延し、本年開催予定の東京オリンピックも行われるか予断を許さない状況です。
そして嘉納といえば、1940年(昭和15年)の東京オリンピック開催に尽力し、招致に成功した人です。このオリンピックは後に日中戦争の激化などにより開催されることなく、幻のオリンピックとなりましたが。

このオリンピックなど国際大会で、日本の柔道家はお家芸として「日の丸」を背負い常に勝利を求められていますが、最近の試合を観戦していて違和感を覚えるのは筆者だけでしょうか?

それは、勝つことに執着しすぎて、勝った後のはしゃぎようは負けた相手をいたわる

武道家としての心が忘れられているように思うからです。

第一線で活躍する現役の柔道選手の柔道に打ち込む目的も「試合に勝つこと」「オリンピックに出ること」だけで、興味を持っていたのは、自分がどうすれば強くなれるのか?どうすれば試合に勝てるのか?ということだけではないのでしょうか。
これは柔道選手の問題というよりも、指導者の問題でしょう。

少し前の柔道指導者のいじめやセクハラ問題が問われた時よりも、今はだいぶ良くなってはきているのでしょうが、こういう時代こそ、柔道に関わる指導者は、常に原点に返って柔道を創始した
嘉納治五郎の「精力善用」「自他共栄」の考えに思いを寄せ、日々の指導に励んでいただきたいと感じるところです。

この日本古来の柔術を学び、創意工夫をこらして新たに「柔道」を創始した嘉納治五郎という人はどのような人だったのか、治五郎の幼少期を振り返ってみたいと思います。

嘉納治五郎の幼少期、青年期

 


[20代の嘉納治五郎]wikipediaより引用
治五郎は1860年(万延元年)10月18日に現在の兵庫県神戸市御影町で生まれました。父は嘉納治朗作、母は定子。治五郎は2人の三男にあたります。

嘉納家は酒造業を営む地元屈指の名家であり裕福な家でした。
ただ、父の治朗作は酒造業を継ぐことはせず、東京まで船で物を運ぶ廻船業を生業としました。治朗作は幕府の廻船方御用達を務め多忙な身であったため、治五郎の幼少時の教育は主に母である定子が行ないました。

息子への教育でなにより重視したのは「人に尽くすこと」でした。
定子自身も困っている人がいれば、常に親身になってその人を支えたと
言われています。
この母の教育方針は、後の治五郎の性格、人柄に大きな影響を与えたようです。
教育熱心な定子でしたが、1870年(明治3年)に治五郎が9歳のときに他界します。

治五郎は明治政府に招聘された父に付いて上京し東京で暮らすことになります。
治朗作は「新しいものを次々と取りこむ」探究心旺盛な人物で、異国から伝わってきた学問や文化を積極的に学んでいました。幼少の治五郎にも英語を習わせたといいます。

1873年(明治6年)、13歳になった治五郎は育英義塾に入ると勉学に励み、
成績をどんどんと伸ばします。
その一方で、いじめに苦しみます。虚弱な体質で体格に恵まれなかったために
腕力の強い者に負けていたことを悔しく、自分の不甲斐なさに悩んでいました。

この頃から非力な者でも力の強いものに勝てるという柔術を学びたいと考えていましたが
家族の反対にあってなかなか実現できないでいました。
当時は文明開化の時で、旧時代の遺物のような柔術は軽視され、師匠を探すのにも苦労し
たようです。
1877年(明治10年)、17歳になった治五郎は「整骨師には柔術経験者が多い」ということを知ると、あちこちの整骨師に「柔術を教えて下さい」と、頼みに回ります。
ようやく念願がかない、天神真楊流柔術の福田八之助の元で柔術入門を果たします。

この当時は体系だった柔術の指導方法はなく、師匠や兄弟子から技をかけられ、倒されながら覚えていく修行方法でした。

もともと負けん気の強い治五郎は、何度も投げられながらも立ち上がり、柔術の技を体で身に付けようと必死に取り組みます。万金膏(まんきんそう、シップ薬のこと)の嘉納といわれるまで、よく練習を重ねました。

また、武術関係の書物も読み漁って、知識面でも研究を重ねました。

治五郎は、次第に柔術を始めたきっかけである「いじめられないように強くなりたい」という気持ちが、薄くなっていることに気づきます。
柔術の中に人間の成長につながる何かがあると、治五郎は考えるようになりました。

1879年(明治12年)、師である福田八之助が急逝。悲しみに暮れる治五郎ですが、遺族より秘伝書を託されると、福田道場の指導者となり、師の意志を継ぐことを決意します。

1881年(明治14年)に、東京大学文学部哲学政治学理財学科を卒業します。
またこの年に、21歳になった治五郎は、起倒流(きとうりゅう)の飯久保恒年師範に師事して、別の流派の体得に励むようになりました。

そして治五郎は、この柔術二流派の乱捕技術を取捨選択し、力学的観点から崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作りあげます。
1882年(明治15年)、22歳の時に、下谷北稲荷町(今の台東区東上野)にある永昌寺の書院借りてを道場とし、講道館を設立します。

 


[柔道発祥の地 永昌寺]

 

柔術の「術」を「道」にかえたのは、単に攻防の柔の「術」を学ぶだけでなく、厳しい修行を通じて己を完成させる「道」を学ぶという治五郎の考えによるものです。

治五郎は教育者としても活躍します。
1882年(明治15年)1月から学習院教頭、1893年(明治26年)東京高等師範学校(現筑波大学)などの校長を歴任します。

講道館の最初の弟子は、嘉納家の書生を勤めていた富田常二郎、ただ一人でした。
二人は寝食を共にし、毎日猛稽古に励みます。

この富田常次郎は後に講道館の四天王の一人として、米国で指導を行うなど柔道の国際的普及にも尽くします。
なお、常次郎は柔道の名作小説「姿三四郎」を描いた富田常雄の父君です。

やがて治五郎の強さと人間性を慕って講道館に入門する門下生も少しずつ増えてきます。
猛稽古による騒音や振動はたいへんなもので、仏様が飛び上がると、永昌寺の和尚さんがカンカンになって怒りまくるほどだったといいます。

治五郎は自分が学んだ天神真楊流や起倒流の道場の有望な者にも声をかけて講道館にスカウトをしました。
その中でも西郷四郎、山下義韶、横山作次郎の三人は特に技が優れ、
前述の富田常次郎を含めて講道館の四天王と称されました。

講道館柔道が有名になり、多くの門下生が増えるにつけ柔術諸派の中には、治五郎の柔道を不快に思う面々も多かったようです。
勝手に「柔道」などと名前を変えてけしからんと、講道館に道場破りに現れます。そして、他流試合を挑みますが、この四天王によってことごとく返り討ちにあったといいます。

この四天王の中でも筆頭に数えられるのが、西郷四郎です。
小説「姿三四郎」のモデルになった人物です。
西郷は身長が五尺一寸(約153cm)、体重は十四貫(約53kg)の小柄な体格でしたが、
技の切れ味では右に出る者がいなかったといいます。

西郷といえば、彼独自の必殺技「山嵐」が有名ですが、それだけではありません。
当時の講道館のお家芸で、他流派から恐れられた足技(出足払いや支釣込足といった技)で、
相手の足を刈る際の技の切れは天下一品でした。
治五郎をして「幾万ノ門下イマダ右ニ出デタルモノナシ」と言わしめたほどでした。
彼はまた、ネコの西郷と称されるほどの受け身の名人でもありました。
ネコが高い場所から投げ落とされても、空中で回転して地上に難なく着地する姿を参考にして、受け身を工夫したといいます。
まさに講道館草創期を代表する天才柔道家でした。

ところで、嘉納治五郎が講道館柔道を創立、その基礎を築い明治15年から20年頃の日本の社会は、明治9年に起きた西南戦争から時間も経過し世の中も落ち着きを取り戻してきま時でした。

国会開設を求める自由民権運動が華やかな時代でもあります。
欧風化の波をもたらした鹿鳴館は1883年(明治16年)に開館しています。
1885年(明治18年)には内閣制を導入し、初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任しています。

そして、この同じ明治18年に東京警視庁の第5代警視総監に就任したのが三島通庸(みしま みちつね)です。
薩摩出身で示現流剣術の使い手でもありました。三島は武術を振興し、後に多くの武術家を警視庁武術世話掛に採用します。

1886年(明治19年)に三島警視総監の肝いりの警視庁武術大会が開催されます。
この大会は奇しくも警視庁柔術世話掛の柔術諸派の面々と講道館柔道の対抗戦の様相になります。

武術大会のクライマックスは、この西郷四郎と戸塚派揚心流の好地圓太郎との試合でした。

好地は身長六尺(180cm)体重25貫(100kg)を優に超す巨漢で、小柄な西郷とはまさに親と子ほどの体格の違いです。
講道館の人を除く、観客の誰もが好地の勝ちを予想しました。

試合当初、好地はまさにちぎっては投げるといった具合に、西郷に襲い掛かります。
そこはネコの西郷といわれるほど受け身の名人でもあった西郷は、投げられても受け身でかわし、ダメージをあたえません。

自分の力も技も通じず、すこしあせりの色と疲れが出た好地のスキを西郷は見逃しませんでした。
まさに虎のように好地に襲い掛かり、得意の必殺技「山嵐」で好地を投げ飛ばし一本を取りました。

嘉納治五郎の説く「柔よく剛を制す」の訓えを、愛弟子の西郷四郎が実証した瞬間でした。

他の柔道四天王の面々も、柔術諸派の実力者を相手に勝ち、もしくは引き分けの熱戦を展開し、講道館柔道の圧倒的な強さを天下に見せつける武術大会となりました。

この試合の後、三島警視総監が講道館柔道を警視庁の必修科として講道館柔道の面々を柔術世話掛を採用した為、現在の柔道の発展の起点となり全国に広まっていきました。

学習院教授にして、講道館柔道の創始者として武道家として天下にその名を知らしめた
嘉納治五郎の青春時代でした。

本ブログを最後までお読みいただき、有難うございます。
この文章の締めくくりに、嘉納治五郎の命式を載せます。


[嘉納治五郎の命式]

 

次回はこの命式を読み解くと共に、日本の柔術、柔道の歴史
や筆者の柔道に関する思い出などにについて述べてみたいと思います。