星野哲郎の名言「しあわせは 歩いてこない」 | 開運と幸福人生の案内人/ムー(MU)さんの日記

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星野哲郎の名言
「しあわせは 歩いてこない
 だから 歩いてゆくんだね」


昭和を代表する作詞家の一人、星野哲郎の『365歩のマーチ』の最初のフレーズです。

水前寺清子の歌で昭和45年に大ヒットしたので、ご存知の方も多くいらっしゃると思います。


[星野哲郎]
筆者もこの歌は大好きで、今でもよく口ずさみます。
「しあわせ」というのは立ち止まって待っていても向こうから近づいてこない。だから幸せをめざして毎日一歩づつでもこちらから歩いて近づいていこう。

その歩き方も決して平たんな道ばかりではないので、汗かき、べそかき歩こうよ。と続けています。
米山正夫作曲の軽快なリズムに乗って、とてもわかりやすく
明るい歌に仕上がっています。

星野は、自分の実体験をベースに、一生懸命頑張る人を応援したい、まさに「援歌」を世に届けたいという
気持ちを込めて作詞したのではないでしょうか。

ちょうど今NHKで放映している、人気の朝の連続テレビドラマ

『エール』は、昭和の戦中、戦後を代表する作曲歌の古関裕而をモデルにしています。
星野の一世代先輩にあたる古関も(こちらは作曲家ですが)多くの人を励まし、応援する気持ちをこめて曲を作りましたが、星野哲郎も同じ気持ちで数々の歌謡曲の作詞を行ったのだと思います。

星野哲郎の生い立ちから青春時代

それでは、星野とはどのような人物だったのでしょうか。
彼の生い立ちと青年時代を振り返ります。

星野は、1925年(大正14年)山口県周防大島に生まれます。
幼少の時に両親が離婚し、母親と祖母のもとで育てられます。

瀬戸内の沖合を行きかう船に思いをはせ、船乗りとして海に暮らすことを夢に描いていたといいいます。
早く独立してお金を稼ぎ、母を楽にさせたいという思いが強かったのでしょう。

星野の性格はおだやかで、学校の成績も優秀だったようです。
地元の中学校を経て、官立清水高等商船学校(現・東京海洋大学)
へ進学します。親元を離れての暮らしです。
この当時の星野のエピソードを、彼の後輩が語っています。

この時代(昭和の初期)は先輩後輩の序列も厳しく、先輩が後輩を指導と称して叱ったり、いじめたりするのに殴る蹴るは当たり前のような時代でした。特に荒くれ男の多い商船学校です。
しかし、この後輩が言うには、星野が後輩に暴力をふるうのを、ほとんど見たことがなかったいいます。

自分が先輩からされたいやなことを後輩にしたくない、というのが星野の信条でした。他人の痛みを理解して、他人に対する思いやりや、自分ができるなら他人の手助けをしたいという気持ちは、星野の青少年時代から培われたもののようです。

1946年(昭和21年)星野は、途中結核で休学しながらも高等商船学校を卒業しました。星野20歳の時のことです。

そして、翌年日魯漁業(のちのマルハニチロ)に就職します。
遠洋漁業の乗組員として、憧れの船乗り人生のはじまりでした。
しかし、わずか2年後に腎臓結核のために下船を余儀なくされます。
1948年3月に腎臓を摘出します。

この手術の術後の経過が芳しくなく郷里の周防大島に戻ります。
夢虚しく破れ、このあと4年にわたる寝たきりの生活となるのです。
星野23歳の時のことです。

星野は、「故郷のせんべい布団の上で、空しく青春を費やした」と当時を回顧しています。ひたすらつらく厳しい闘病生活でしたが、温かな周囲の愛情を手がかりに、身体の回復に努めます。

そして、この闘病生活のかたわら、小説や詩作を始めました。
星野は暗夜の中に、詩作という小さな『ともしび』を見出したのです。

1952(昭和27)年 星野27歳の時に、徐々に症状が回復してきました。近所の子供たちを集め、勉強を教えていました。

この年の3月、教え子から雑誌『平凡』で「コロムビア全国府県対抗歌謡コンクール課題歌詞」を募集していることを知らされ、以前に作った詩を歌謡曲風にアレンジし、『港のスケッチ』として投稿をしました。
9月、『平凡』に投稿の詩が入賞しました。
この詩が翌年に、先輩の作詞家石本美由紀の手で補作されて、
『チャイナの波止場』としてレコード化がされます。
作詞家星野哲郎のデビュー作となりました。

星野哲郎の命式を読み解く

星野の生い立ちから青年時代を振り返ったところで、彼の
命式を読み解きます。

命式表をご覧ください。


星野は、1925年(大正14年)9月30日生まれです。
干支は、
年柱が乙丑、月柱が乙酉、日柱が丁巳 となります。
  
五行を集計します。
木気が2、日主の火気が2、土気が1、金気が1、水気が0となります。
なかなか良い五行の配置です。日主が火気ですから、水気が欲しい
ところです。
こういう人は、水を無意識に求める傾向がある場合が多いです。
水に関係する職業につくとか、水を暗示する色やモノに惹かれます。

この丁巳生まれの人は、決断力があり進取の気性に富みます。特に丁は文明の灯りを意味しますから、体力仕事よりも知能や手先の器用さを活かした技能、芸能、研究畑の職業が向いています。

また、丁巳生まれの人はおしゃれでセンスが良い人が多く、他の星との組み合わせによっては、強烈な個性を発揮します。芸術家として大成することもあります。
華やかさを持ちますから、男女とも色難に注意する必要があります。

命式をもう少し詳細に見ていくと、年柱は 偏印と食神が並び、
おまけに月柱に重ねて食や健康の源の食神の天敵の偏印があります。

月柱は空亡もしていて、幼少期や青年期に大きな病気を患うという悪い象意が出ています。
とはもうせ、日柱の丁巳は非常に強い運を表します。青年期の危機を
うまく乗り切れば、晩年はうまく病気と付き合いながら天寿をまっとうすることもできなくはありません。

月柱の偏印-宝財の組み合わせは、宝財が偏印を制して財の力を弱めます。
趣味や仕事の面で、あれもこれもと手を出したくなりますが、何でも
こなそうとすると財が続かず、体力的にも消耗し失敗に終わります。
多くを望まず一つのことに専念すれば、多くの人から援助をしてもらい、大きな成功を得ることもできなくはありません。

この人の場合、月柱蔵干の宝財と日柱蔵干の劫泉が干合をしており、
おまけに地支が巳酉丑と三合金局を形成しています。
このため、微妙に性格に陰陽・屈曲が現れます。
本来ならリーダーシップを発揮して、ストレートに俺が俺がというお山の大将的な部分が丸くなり、他人に対する思いやりや優しさにつながります。

よく世間を観察し、社会やつきあう人間を見極めることも出来るわけです。

 

以上、星野の命式の概略を見てきました。厳しい環境の大病を患いながらも、暖かい周囲の人に支えられて徐々に本職の作詞家としての道を歩み始めます。

 

次回は星野の命式をもう一度まとめながら、彼の後半生を眺めてみましょう。果たして命式が示すとおりに、作詞家として大成できるか?